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[対談]科学の言葉がもつ力

熊谷 晋一郎 大隅 典子 東北大学

2020.06.30

概要

[対談]科学の言葉がもつ力
著者
ページ
発行年
URL

熊谷 晋一郎, 大隅 典子
1-7
2020-06-30
http://hdl.handle.net/10097/00128042

[対談]科学の言葉がもつ力

熊谷晋一郎

大隅典子

熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター)
大隅典子(東北大学大学院医学系研究科)

当事者研究をしている人々は、当事者としてさまざまな問題に直面しているわけだが、同時に研究
者としてそれを探究するというところもあって、探究することが回復につながるのだと熊谷氏は述
べる。そのような当事者研究と、必ずしも自分の問題と向き合うということをしない科学者とは、
どういう関わりをもつべきなのだろうか。

熊谷

当事者研究という実践がとても豊かな裾野をもっているので、私は全貌を代表して何か

を言える立場にはなく、あくまでも私個人の意見になるかもしれませんが、研究者と当事者が
コラボレーションするときに、案外、基礎研究の先生との連携がうまくいくことが多い印象は
あります。
それは、
臨床研究の民主化のところでも少し述べたのですが、
価値中立性があるからですね。
この状態が良いか悪いかという価値観を脇に置いて、事実として何が起きるのか、ということ
が基礎研究の中では一貫している。この価値中立性の徹底が、当事者研究の中でもかなり重視
されています。
当事者も多数派に囲まれて生きているので、ついつい多数派の価値観にしばられる。たとえ
ば九時∼五時で働けることが良いことだとか、さまざまな多数派にカスタマイズされた善し悪
しの基準を内面化してしまう。それが原因で、自己スティグマといいますか、自分を責める状
況に陥っていることは珍しくありません。
当事者研究では「研究」という標語をうまく使うことで、基礎研究的な意味における価値中
立性に近い仕組みを取り入れています。
自分が長年内面化してきた価値をいったん脇に置いて、
自分の身に起きていることを透明な目線で見てみよう、という掛け声のような部分があるかな
と思っています。
臨床の現場に近づくと、どうしても「価値」というものが大なり小なり出てくると思うので
すね。価値というものはエビデンスに先立つものであって、それは別途議論しなければいけな
いものです。まずは価値中立的に何が起きているのかを明らかにしようというレイヤーで、当
事者研究と基礎研究が相性がいいという感覚はもっています。
ただ同時に、私も大学に身を置いているので、予算を取るときなどは価値に訴えかけるとこ
ろもあります。何々障害が軽くなりますよとか、あるいはこういう生きやすさにつながります
1

よ、というように。特に回復のところで、どうしても「価値」というものが出てきます。そう
いう見せ方をすることで、社会に「この研究には価値がありますよ」ということを訴えかける
側面も同時にあることは自覚しています。
でも、本来は研究というのは、そういった価値をいったん脇に置いて、事実を明らかにする
ことに集中できる場所をすごく大事にしているので、当事者研究と基礎研究というものがすご
く近しいところにあるのではないかというふうに感じてきました。
大隅

私たちの業界(神経科学)では「動物モデル」という言い方をします。たとえば「脊髄

損傷の動物モデル」というのは、脊髄の損傷をさせた動物(マウスなど)をつくるので非常に
わかりやすく、治ったかどうかというのも非常に客観的に判断できます。
ところが、自閉症のような場合には、スペクトラムとしての広がりが非常に大きく、人によ
って症状がいろいろ違います。そういった場合の動物モデルをつくるのは非常に難しい。さら
に、当事者が困っていることと、健常者、多数派の人たちが「困っているので治してほしい」
と思っていることが異なるということがあります。
しかも、多数派の人たちが考える「社会性」や「こだわり」が診断基準に入れられてしまっ
ているので、それをモデル化するのが非常に難しいところがあります。
「感覚のまとめあげ」が
難しい、といった当事者の感覚に合わせたモデルマウスをつくるほうが、はるかに簡単なよう
に思えます。
熊谷

今のお話はすごく印象的で、個性をどういう形で記述するのかということに関わるのか

なと思います。たとえば「ASD マウス」という表現って、とてもレトリカルですよね。科学か
らちょっと離れて、文学的というか、レトリックを使っている部分があるかなと思うんです。
そうではない動物モデルというものを考えるときに、今まさに「感覚のまとめあげが困難な
動物の研究というほうがはるかに簡単だ」というふうにおっしゃったのは、非常に励まされる
メッセージです。
ASD という概念の中に、社会的な規範であるとか、いかにいろいろなものが混じっているか。
現状の ASD は、個体の個性というには曖昧すぎる概念なのです。そういう概念を所与として、
そのメカニズムを明らかにするための実験や研究となってしまうと、入り口のところでつまず
いてしまう感じがしています。
私はいま、当事者研究の立場で、最終的にはカテゴリー的な個性の記述はやめたほうがいい
のではないかと思っています。ASD などのある診断基準を満たす人がプラス(陽性)で、そう
ではない人がマイナス(陰性)であるという、プラス・マイナスみたいな形で個性を記述する
のではなくて、身長はこう、体重はこうというような感じで、いくつかの座標軸をつくって、
個性が記述できる次元をうまく整理できないのかなと感じています。
2

大隅

いま言われたことが、まさに私たちが動物モデルを ASD などに見立てるときに難しい

と思ったことです。病態モデルマウスとして世界で最初につくられたのは高血圧のマウスで、
この研究はノーベル生理学医学賞につながりました。高血圧マウスなら、血圧を測って、普通
のマウスよりも血圧が高くなればいいわけですね。
あるいは血糖値が高いとか、
そういった個々
のモデルであれば比較的立てやすいのですけれども、そのような特性を全部備えた動物モデル
というのは難しいんです。ASD の方たちもスペクトラムの中でいろいろな個性をもっていらっ
しゃると思うので、ざっくりした「ASD」というカテゴリーにぴったり合うマウスのモデルは、
もともと絶対に無理ではないかと本当に思います。
熊谷

現在、精神科的な個性の記述にはパラダイムシフトが起きつつあります。カテゴリー方

式からディメンジョン(次元)方式への変化といいますか、軸をうまく張って、その数値の違
いで、まさに血圧のような形で個性を記述するという方向に動いています。たとえばアメリカ
のアメリカ国立精神衛生研究所の「研究領域基準(Research Domain Criteria=RDoC)
」と
いう取り組みでは、カテゴリカルな診断名をなくしてしまって、ディメンジョンだけでいろい
ろな人の多様な個性を記述できないかというような模索がなされています。
当事者研究もそうかもしれないし、動物実験もそうかもしれませんが、こういったディメン
ジョン方式へのパラダイムシフトについていくような研究デザインが求められるんでしょうか。
大隅

そうですね。

私は臨床研究をおこなっている立場ではないのですが、基礎研究者と臨床研究者の間で情報
やものの考え方をシェアする機会がもっともっと設けられたほうがいいのではないかと思いま
す。臨床の先生から「動物ごときで何がわかるの?」と、頭ごなしに言われてしまうこともあ
ったりするのですが、本日のご講演では、当事者研究から見たら、むしろ動物のほうがなじみ
が良いこともある、というふうにおっしゃってくださったので、それを励みにして研究したい
と思います。
司会

当事者研究をされている人たちにとっては、科学的な言葉を使うこと自体に、ある種の

回復をもたらす可能性があると理解しています。たしかに、自分のもっている個性を、ある種
のディメンジョンの中に位置づけられたものとして、つまり、カテゴライズされたものではな
いものとして見ていくということが、それぞれの人たちにとってメリットになったり、回復に
つながったりするということはわかります。とすると、動物の研究の成果を、当事者の方々の
回復につなげることはできることになるのでしょうか。動物の研究でわかったことをお知らせ
することで、当事者の方が生きやすくなるというようなことがあるかについて、もしご意見が
ありましたら、教えていただけますか。
熊谷

具体例でお話をすると、これもまた綾屋さんの当事者研究なのですけれども、いろいろ
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経験を整理していくと、どうも綾屋さんとしては「脳幹があやしい」となった。神経解剖学な
んかも一緒に勉強し、綾屋さん自身の経験と照らし合わせていって、一つひとつ解剖学的に検
討すると、どうも脳幹に行き当たる。しかし、それを証明しようとしても、少なくとも人間の
研究においては脳幹というのはものすごく解明が難しい部分です。介入ももちろんできません
し、画像上もとらえどころが十分にないですし、なかなか到達しにくい場所ですね。
しかし、自分の困難について、たしかにそういう困難のパッケージは存在するのだというこ
とを周りに表明したいというときに、まさにマウスを使って脳幹に関する研究をされている研
究者と一緒にディスカッションをしていて、動物実験の知見が説明資源として急に浮上してき
たんです。
たとえば綾屋さんでいうと、声を調整することができない、あるいは呼吸の調整がうまくい
かない、それとどうも情動的な制御が関係していそうだとか、聴覚の処理もオリーブ核あたり
が影響しているのではないかとか、そういったことから、脳幹のこのあたりなんじゃないか、
というところまで詰め将棋のように詰めているんだけれども、なかなかそれを証明する手立て
がない。本当に、当事者が経験しているこの経験と脳幹とが関係しているのだろうか、という
ところで動物実験の知識を手にしたことで、綾屋さんとしてはストンと自分の経験を説明でき
る根拠を得ることができたというふうにおっしゃっていたのですね。
そういう意味では、動物実験でしか到達できない説明図式が、当事者の可視化されにくい困
難を周囲に伝えるための資源として提供されることはありうるなと思っています。
大隅

私たちもマウスを使った研究で、広くいえば脳幹に相当するところがあやしい、母仔分

離での鳴き方の違いに関係するようなところに相当するかもしれないというデータを実際にも
っています。
これまでの研究業界では、
心の病のようなものは非常に高次な脳機能なので、
脳幹のような、
非常に動物的なというか、進化的に古いところよりも、ヒトの高度な大脳でどんどん発達した
前頭葉のようなところに着目されがちだったことがあると思います。根本的な原因はそうでは
ないところにあるのかもしれません。前頭葉が関係ないという意味ではありませんが、もとも
とのキーになる脳の部位がどこかということに関して、もうちょっと上流、時間経緯でいうと
早いところに関係する脳の部位として、脳幹などに着目するのは非常に意義があるのではない
かなと私も思います。
熊谷

それに関連してすごく重要なのは、当事者にとっては、努力で変えられる範囲と努力で

はなかなか変えられない範囲の境界線に関する知識というものが生きる上で切実なんですね。
大脳というのは可塑性があると解釈されがちな場所ですし、実際、脳幹などに比べると努力
や経験によって変わりうる余地が残る場所です。本当は脳幹が原因なのに、大脳が病理の原因
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だと誤認されると、
「本人の努力不足を棚上げしてつけられた障害名だ」というスティグマが助
長されかねません。当事者にとっては、
「変えられるんだ」ということだけではなくて、
「変え
られないんだ」という知識もすごくありがたいものです。
脳幹のように可塑性の低い場所に何か特徴があるということが示されることのインパクトは
非常に大きい。もちろん脳幹にも可塑性はあるので一概には言えませんけれども、
「あ、ここは
もう変えられない個性として受け入れる範囲なんだ」というふうに、後天的に変わりうる部分
と変わりにくい部分をしっかりと区分けすることの人生におけるインパクトは多大なものがあ
るなというふうに思います。
大隅

なるほど、ありがとうございます。

司会

会場から一つご意見を頂いていますので、紹介します。このご意見には、コメントの部

分と質問の部分がありまして、質問に関しては両先生にお伺いしたいと思います。まずコメン
トのほうからです。
「精神疾患の基礎研究が広くおこなわれていますが、研究の再現性を確保し
なければならないために、個別性の研究を行うことが難しくなっているように思います」とい
うものです。質問なのですが、
「インペアメントに比べて、ディスアビリティについての基礎研
究を行うことは、難しいように感じます。ディスアビリティの本質にせまる基礎研究をするた
めに、どのような工夫をすればよいかについて、何かアイデアはありますか」です。
大隅

では、基礎研究についてなので私のほうからお答えさせていただきます。

今までのマウスを使った動物の行動の研究は何かテストをさせて一匹一匹のマウスのスコア
を測ってということが多かったわけですけれども、社会性と言われるようなことを調べるのに
複数のマウスを使って調べる、そういった行動の解析の仕方もいろいろな工夫がなされていま
す。ただ、それもまだ私の見立てでは過渡期といいますか、マウスが本当に社会性を調べるの
に適しているかどうかということが難しいかなと考えます。非常に特殊な環境において調べて
いるということがありますし、もうちょっとナチュラルに、普通にケージの中で例えば 5 匹い
たときに A のマウスと B のマウスの接触頻度と C と D がどうかとか、E というのはずっとひ
とりぼっちでいるのかとか、もうちょっと調べ方をきっと工夫する必要があるのかなというふ
うには思っています。
ですが、まったくディスアビリティの部分は調べられないかというと、それは実験の工夫の
仕方の部分もあるかなとは思います。ただ、繰り返しますけれども、もともとの動物の持って
いる性質が人間とは違うところがありますので、あくまで「マウスで考えたときには」
、という
ことかなと思います。
熊谷

ディスアビリティの基礎研究を考える上では、環境測定の技術がボトルネックの一つに
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なるのかなと。今の大隅先生のお話もまさに他個体が環境を構成しているというか、一つの個
体から見ると他の個体は環境になるので、その環境を変数として観測したり、コントロールし
たりすることでディスアビリティの次元に関する洞察を得ることのできる基礎研究のパラダイ
ムだと思います。つまり環境要因とインペアメントの相互作用によってディスアビリティが生
じるとすれば、環境要因をきっちり記述したり、操作したり、変化させたり、測定したりする
ことが重要になってくるのかというのが一つあります。
あとは、私が今ちょっと考えていますのが、ASD とされる人の多文化比較ということです。
イギリスで求められる社会性と日本で求められる社会性はおそらく異なる。
アメリカ、
ガーナ、
ニュージーランド、みんな違うと思うのですね。それぞれの文化圏で理想的な社会性やコミュ
ニケーション様式が違うとすれば、もし、そのネガとして ASD が捉えられているのであれば、
ASD もまた微妙に異なったインペアメントをそれぞれの国で見ている可能性があるかもしれ
ないと。
実際、今、ASD の診断基準でゴールドスタンダードとされている ADOS という診断方法は、
アメリカの外になかなか広がっていきづらいということがわかってきていて、やはり診断基準
が文化差を十分に取り込めていない。ASD 概念自体の中にディスアビリティが混入しているか
ら当然といえば当然なのですけれども、そのあたりが何かヒントになるかもしれない。
すなわち、日本で ASD とされている人の中には、ガーナに行くと快適に過ごせる方がいる
かもしれない。逆にそこから日本で過ごしやすい環境というものがデザインできるかもしれな
い、というような多文化間比較という方向がもう一つあるかなと思っています。
大隅

一ついいでしょうか。ディスアビリティの中でもう一つ、対人というか、対個体の面だ

けではなくて、バックグラウンドノイズが非常に大きいと、そこからシグナルをとってくるの
が困難と。そういったことがあったと思います。それに関しては、例えばマウスの「プレパル
ス抑制テスト」などが相当するかもしれません。大きな音を聞かせるとヒトでも動物でも自然

にビクッとするんですが、その 50 ミリ秒くらい前に、驚愕音よりも小さい音を聞かせるとび
、、、、
っくり度が減るというのが、一般的に認められます。ところが、それが減りにくいマウスもい
て、ヒトの精神疾患でも同じ症状がみられるのですが、このことはフィルター機構が悪いとい
うようなことにつながっていて、つまり、シグナルノイズ比が悪いということにも関係するか
もしれないと考えられています。あるいは、違う環境でそのマウスの行動を見たときに、どう
いうふうになるかというようなことはもちろん比べられるし、そうするとそれは脳のどこがそ
のときに働いているのか、というようなことを基礎研究として追求することもできます。
ちなみに、仔ネズミがお母さんから離されると、ピーピーと超音波帯で鳴くという行動実験
をご紹介しましたが、仔ネズミにとって、それは「ママ、ママ」と呼んでいるのかどうかはわ
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からない。でも、
「何かあたりの様子が変わったぞ」といって、鳴いているのかもしれません。
それが、自閉症のモデルと言われるマウスでは、この超音波発声の回数が減るという報告も為
されています。それも例えば、測定するときの環境が、ケージの中と同じようなガサガサした
床敷の上に置くか、それとも柔らかい綿の上に置いておくかで、鳴き方が変わるようです。熊
谷先生、綿の上だと、増えるか減るか、どっちだと思いますか?
熊谷

どっちでしょうね、減る?

大隅

そう、減るんですよ。ということで、要するに、周囲の環境、どんなふうな刺激に対し

てどう反応するかというのが、やはりネズミを使ってもある程度共通項として見るということ
は、もしかすると可能かもしれないなという、私たちとしては常にそういう立場で頑張ってい
きたいと考えています。

付記:この文章は、2018 年 3 月 25 日(日)に、東京大学福武ホール・福武ラーニングシア
ターにおいて行った、新学術領域研究 〈個性〉創発脳 第一回市民公開講座「科学者として/
当事者として研究すること」
の対談に基づき、
その原稿に若干の加筆修正を加えたものである。
当日の司会を担当したのは原塑(東北大学大学院文学研究科)
、当日、会場から多数いただいた
質問を確認し、回答するものを取捨選択したのは、内田麻理香(東京大学大学院総合文化研究
科)であった。また、この文書の編集は濱門麻美子(岩波書店)がおこなった。 ...