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材木商人の市場対応に関する史的研究 : 近世・近代武州西川材を事例にして

丸山, 美季 筑波大学

2020.07.21

概要

本論文は、西川材の生産・搬出・販売を担った材木商人の史的分析を通して、近世・近 代の特に販売過程における材木商人の果たした役割について解明しようとするものである。ここでは材木商人は伐出業者と定義する。

序章では、先行研究の整理、および本論文の目的と分析方法を示した。林業史研究上の重要な課題の一つ、林業地帯の構造的な展開の特質解明は、「材木商人」=伐出業者を軸にして考察することが不可欠である。材木商人を中心に据えた先行研究においても、生産・伐出・輸送までの検討にとどまり、材木をいかに市場に販売するかという段階については十分解明されていない。対象時期も近世までとされ、近代の分析にまで及んでいない。それに対し本論文は、江戸・東京に材木を供給した西川林業地帯(荒川支流の入間川・高麗川上流域に成立した杉・檜の育成林業地帯の総称)を対象に、材木生産(伐出・製材・運材)・販売の担い手である山元材木商人に着目し、近世と近代において西川材を市場へ販売する対処方法の歴史的特徴を実証的に考察する。

第一部「近世における西川地方の材木商人と材木販売」では、近世に焦点を当て、西川材の生産・伐出・輸送・販売の発展に大きな役割を果たした、材木商人町田家の江戸材木問屋経営の成立・展開を検討した。

第一章「幕府の林業政策と西川地方」では、町田家が江戸に材木問屋の店を出す以前について、幕府の林業政策の変遷を江戸地廻りの林業地帯に布達された触れを中心に検討した。西川地方は、宝暦・明和期(1751~72)にはかなりの筏を流送するようになり、用材化を目的とした林業生産の展開が見られた。その背景には、幕府の林業政策が享保期(1716~36)までの厳重な伐木・売木制限の山林保護政策から明和期(1764~72)に転換し、植 林推奨ならびに利用奨励政策へと変化したことも一定の影響を与えたことを明らかにした。

第二章「町田家の江戸材木問屋経営」では、寛政期(1789~1801)に町田家が最初に江戸に開設した材木問屋の店である浅草今戸町の町田屋栄助店と藤田屋喜助店の経営について分析した。近世中期以降は江戸の手前に位置する千住等に成立した筏宿と山方荷主との直接取引の盛行により江戸材木問屋の衰退が進み、江戸周辺市場の著しい成長が同時期に見られるなど、江戸での材木問屋経営は厳しいものがあった。このような状況のもとに、町田家は江戸の材木問屋に材木の販売を委託しておくだけでなく、自ら江戸に材木問屋を出店して直接取引に乗り出したのである。町田家による江戸進出は、自家はもちろんのこと、西川地方の材木商人たちの販売拠点としての役割を果たし、以後の西川材の市場への販路拡張に大きな影響を与えた。

第三章「江戸材木問屋経営の拡大」では、町田家が浅草今戸に材木問屋 2 店を置いたまま、文政 11 年(1828)に深川久永町に開いた 3 店目の町田屋安助店の経営を分析した。安助店は、店始め直後は赤字を出すものの売場を新たに取得するなど経営を拡大していった。店は、人手が足りないときに本家から人を融通してもらうなど、少人数で営業する小規模なものだった。18 世紀後半以降材木問屋の活動の中心地となった深川に機敏に店を出し、西川材の販売拠点を築いた点は注目される。さらに、天保期(1831~45)に同じく深川に開設された町田家の出店である太助店と歌助店の経営を分析した。太助店は、経営不振のため早期に撤退することとなったが、安助店の支店的役割を担い、西川地方の者を雇用するなど労働者を受け入れた。歌助店は、「下り荷」(遠隔地から海上輸送されてくる材)を扱う板材木熊野問屋の株を取得し、材木問屋店を開設した。それまでの町田家の江戸材木問屋は、「地廻り荷」(主に関東から河川輸送されてくる材)を扱う川辺一番組古問屋であったが、ここで初めて板材木熊野問屋の株を取得した。「下り荷」の取り扱いにも乗り出す意図の現れと推測できる。加えて同時期に上名栗村の材木商人で、安助の世話によって江戸に進出した槙田屋の材木店の成立から閉店までの経緯を追い、町田家の援助なしではその開設は実現しなかったことを明らかにした。

第四章「株仲間解散とその後の江戸材木問屋経営」では、天保改革時の株仲間解散後における町田家の江戸材木問屋経営の新たな動向を明らかにした。町田家が出店する江戸材木問屋は天保期(1831~45)以降新規開設されていない。そのような状況の背景には、天保期の経済不況という外的要因が大きかった。一方で、弘化 4 年(1848)、町田家が新たに仲買の店を開設したことをとりあげた。その結果、問屋の段階に止まらず、生産―搬出―販売までの過程を一貫して行う一つのルートを作り得たわけである。つまり町田家は、西川材が市場に到達するまで全過程に関与することで取引を有利に進めようとした結果である。

以上のように町田家の江戸材木問屋は、自家および西川地方で生産・伐出した大量の材木を有利に販売することを目的に出店され、その役割を十分に果たした。既に 18 世紀には、江戸材木市場では出買や出売などの取引が横行し、集荷がままならず問屋の衰微が見られた。そのような状況下で、町田家の江戸進出はなされた。町田家の江戸店は生産地と直結しており、集荷が確実になるため、有利に経営を展開できたと考えられる。

第二部「近代西川地方における材木商同業組合の成立と展開」では、近代日本の資本主義経済の発展に大きく寄与した在来産業の一つである林業において、同業者組織がどのような役割を果たしたのかを、歴史的に分析・考察した。

第一章「材木商同業組合前史―西川地方における筏仲間の成立と展開―」では、近代の 材木商組合の組織化の前に、近世から活動していた西川地方の筏仲間の展開を考察した。 頻発する下流諸村との筏争論に対処するために材木商人が自主的に組織して結成したのが、近世の筏仲間であった。文化期の結成後、文化 9 年(1812)に筏の川下げを有利にするために筏仲間は幕府へ冥加木上納を請願した。弘化 4 年(1847)には人足に払う賃金や経費を統一的に取り決めたり、慶応 2 年(1866)武州一揆が起きた翌月に、困窮者へ伐り出した材木を用立てることを決めたりするなど、地域への援助や調整機能も持つに至り、幕末には一層の機能強化を遂げた。このように近世の筏仲間は、材木商人による近代の仲間組織のベースとなったことを明らかにした。

第二章「材木商同業組合の成立―準則組合西川材木商組合を中心に―」では、明治 22 年(1889)に埼玉県の西川林業地帯に成立した準則組合である西川材木商組合をとりあげ、近代の同業者組織化が近世から続く林業や林業地の発展に果たした役割について、制度的側面と実態的側面から考察した。西川地方の材木商人は、近世以来の筏仲間をベースとして、近代租税法により県税徴収のために結成された山稼仲間から、明治 17 年(1884)同業組合準則制定に基づく西川材木商組合を組織し、従来から直面していた筏の流送過程の安全問題の解決を図りながら、新たな機能を付加しつつ活動を展開していった。その機能としては、製品の規格や検査の厳密化による品質保証、筏流送過程の整備、保守、組合員に対する金融機関的役割、挽賃・削賃・筏乗賃の取り決めなどがあげられる。これらの諸活動を通じて、西川材、西川林業のブランド化、産地としての確立を図り、西川地方の発展を促したと考えられる。

第三章「材木商同業組合の展開と役割―重要物産同業組合「武州西川材木商同業組合」を中心に―」では、明治 33 年(1900)重要物産同業組合法に基づき明治 42 年(1909)に埼玉県西川地方に設立された武州西川材木商同業組合について、その役割、および同地林業の発展への関わりを検討した。前身となる同業組合準則による組合は、製品管理・品質保証など市場対応の機能を強め、かつ重要物産同業組合法による改組を経て一層その役割を明確にした。具体的には、流送関係の組合収支が急減する一方で検査費の比重が拡大し、規格化・品質管理など検査機能の強化がみられた。加えて博覧会や共進会への出品、他の先進林業地への視察などを通じて、品質改善の向上がはかられ、西川材の評価を高めた。そのような組合事業の展開には、鉄道、トラック輸送という全面的な陸送への転換や、造林・伐出・加工・運材などにおいて技術革新があり、飯能の材木産地市場としての地位の確立があった。その結果、武州西川材木商同業組合の勢力が強まり、大正 11 年(1922)に高麗川筋の準則組合との合併が実現し、地域範囲は最大規模となった。このように同業組合が西川林業地帯の発展に大きく貢献したことを明らかにした。

終章では、以上の検討を総括した。本論文で明らかとなった西川林業の担い手の性格の変遷は、近世から近代における材木の生産・販売ルートや市場の変化への対応の反映であったということができる。

近世には西川地方では、町田家のような材木商人個人の果たした役割が大きかった。町田家は、材木商人として江戸に店を出し、筏仲間の中心として江戸市場と上名栗村をはじめとする飯能川上村々とを結ぶ役割を担った。さらに、村内の農民に稼ぎの場を提供し、農民層の再生産と同時に自己の再生産をはかる経営を展開していた。つまり、江戸店の発展を通じて、西川材の生産・市場でのシェア拡大および地域経済に貢献を果たしたといえる。

近代になり資本主義経済の発展に伴い、材木の輸送方法の変化、供給地域の広がりなどによって材木の生産・販売構造は変化した。西川地方にとっては、大市場に近く、材木を短時間で筏流しで運搬できた有利性は薄れたが、反対にさらに市場と近づくチャンスでもあり、それに対応していくことが求められた。こうした状況の中で、東京への材木供給地として西川林業地帯が生き残り、近世以来山方の材木商人が生産・販売を主導していた体制を維持するために大きな役割を果たしたのが、材木商人の同業者組合であった。近代の材木商人の同業組合は、筏の流送過程で起きる諸問題に対応するために組織された近世の筏仲間を土台に、特に市場が求める製品の規格や検査の厳密化による品質保証を担う存在としての機能を強化し、西川材、西川林業のブランド化、産地としての確立を実現していったのである。

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