プラットフォームとしての教育数学 (教育数学の一側面 : 高等教育における数学の多様性と普遍性)
概要
24
0 -
フフッ トフォームとしての教育数学
三重大学名誉教授
蟹江幸博 (
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目次
1
.
2 二種類の「標準」 .
.
.
........
1
.
3 教育を意識しながら数学を論じること.....................
1
.
4 論議の規準
付録
汎用枠式群
AB
第一種汎用枠式群
(基礎となる枠式)
第二種汎用枠式群
(他の枠式から導出される枠式)
566781235777
1111111
2
「学校数学」を論じる
2
.
1 論点型規準の役割.......
2
.
2 課題の設定—-“原理”という論点
2
.
3 「枠式」につしヽて補足 .............................
2
.
4 「原理の枠式」について.....
2
.
5 「原理の枠式」の「教育」への適用..................
2
.
6 「学校数学」の構造の解明ー論拠と論法
2
.
7 「学校数学」の設計
2
.
8 本章の補足
22 335
ー
論議のプラットフォームとしての教育数学
1
.
1 共同体と価値......
ー
25
数学の教育について,きちんと論じるための
プラットフォーム
場
が必要だと思っている.論議と実践
は,一般に,表裏一体の関係にあるから,教育の観点から数学を論議する場は,同時に,教
育を意識した数学の実践の場でもある.そうした
プラットフォーム
場
として,「教育数学 (
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Mathematics)」は考えられた.
教育数学は,教育を明確に意識しながら,数学について論じ,実践しようとする営みの
総称である.本稿では,教育数学のうち,数学について“論じる”営みについて焦点を当て
てみたい.
1 論議のプラットフォームとしての教育数学
1
.
1 共同体と価値
教育を“意識”して論じ実践する数学は,そうではない数学と何かが違うのだろうか.(「教
育や数学が厳密には何を意味しているか」という難問については,今は触れないことにす
る.同様に,この章で使用する言葉の多くは,人によって受けとる意味がさまざまである
ことは承知の上で,“定義”をせずに使うことにしたい.)
教育を,教える者と学ぶ者の間で成り立つ関係が中心にあるものと考えることにしよう.
今,教育について,教える側から見てみる.第一に言えることは,人が他の人に何かを教
えているとき,教えている内容は,何かしら相手にとって“価値 (
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)"のあるもののは
ずだということである.(実際に,その場で当事者たちが意識しているかどうかは別だが.)
教育という関係が成立しているということは,この“価値”が,教えている者と学んでい
る者に共有されている(と,少なくとも教えている側は思っている)ということであって,
つまり,教育は,抽象的で,漠然とした言い方になるが,共同体 (community) のなかで
成立するものになる.
共同体という抽象的な枠組みを前提として解釈するなら,教えている内容の“価値”が,
教える側にも学ぶ側にも共同体で自明視されるようなものであるとき,“価値”の共有が当
事者たちに意識されることはないかもしれない.こうしたとき,教育は,共同体を維持す
るための手段ということになる.また,教える側が初めて見つけたことや考えついたこと
など,既存の共同体で共有されていない事柄を別の者に教えようとするようなとき,教育
は共同体の変革の手段ということになる.
いずれにしても,当事者がどの程度意識しているかは別として,教育の基盤には共同体
の構成員が共有する(あるいは共有すべき)“価値”が横たわっているはずであり,教育的
な実践はその“価値”の実体化のためのものであるはずだということになる.
それでは,最初の問いにもどろう.「教育を意識して論じ実践する数学は,そうではない
数学と何かが違うのか」という問いである.今,答えを端的に言えば,教育を意識して実
践される数学は,その教育を規定する“価値’'に束縛されているのに対し,そうではない
数学の方はそうした束縛を受けていないということになる.(「数学は自由である」というゲ
オルグ・カントールの有名な言葉があるが,教育を意識して実践する数学は,自由ではな
2
26
いということになる.もちろん,教育とは別種の“価値”に束縛されている数学の実践は,
他にいくらもあるだろうが.)
1
.
2 二種類の「標準」
教育的な営みが‘‘価値”に束縛されているのなら,それを論じ実践する際に,その背後
にある“価値”を具体化した“標準 (
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)"があると便利である.この“標準”には,
大きく二つの種類が考えられる.
ひとつは,その“価値”を体現する教育内容自体を表現するもので,いわば減虻の役割
を果たす‘‘標準”になる.もうひとつは,個々の内容がその“価値”に則っているかどうか
クライテリア
の判断を援けるもので,こちらは,いわば判定条件集とでもいうべき‘‘標準”である.
たぐい
数学の教育についていえば,「教科書」の類は典型的なモデル型の“標準”というべきだ
ろう.クライテリア型の“標準”の方は,あるいは,日本の初等・中等教育における「学習
指導要領」などが例になるかもしれない 1.
いずれにしても,実際の‘‘標準”の例について,これはモデル型の標準なのか,それと
も,クライテリア型の例なのか,あるいは,そもそも“価値’'をちゃんと体現しているの
か,といった問題は,答えるのが難しい例えば,教科書はすべてモデル型標準というわ
けでもない.一冊の教科書がモデルになることもあれば,同じ教科書が実際の授業を実践
するためのクライテリアになることもある.実際,同一の教科書は,あるクライテリアに
対応するモデルであると同時に,モデルとしてのある授業のクライテリアとしてのテキス
トでもありうる.つまり,モデル型とかクライテリア型というのは,具体的な事象を区分
するものではなく,使い方であるとか見方といったものを表現していると思ったほうが良
いことになる.
しかし,個々の事象をモデル型とクライアント型にきちんと二つの組に分けること(厳
密な意味で,「類別する」こと)が無理であっても,こうした“モデル型とクライアント型
からできている標準’'という枠組は,現実に存在しているかどうかとは別の意味で必要だ
し,また,役に立つ.したがって,そうしたものに,きちんと名前をつけて,使い方を決め
ておこうというのが,教育数学の方法の要のひとつである 2.
1
.
3 教育を意識しながら数学を論じること
本稿の冒頭で,「教育数学とは,教育を明確に意識しながら,数学について論じ,実践し
ようとする営みの総称である」と述べた.
教育を意識しながら数学を“実践”することとして,わかりやすい例を挙げれば,“標準”
となる教科書を作成することや,教科書を使って行われる数学の授業などが考えられる.そ
れでは,教育を意識しながら数学を“論じる”ということは,何を意味しているのだろうか.
1ただ,「学習指導要領」のような現実的な話題になると,その背後にある共同体をどう思うか等々,やっか
いな問題が多く現れる.
2 「枠式の方法」,あるいは,より詳しく「枠式と型式の方法」と呼んでいる.
3
27
実際の例を,いくつか挙げてみる.(「教育数学」は,筆者たちが考案した言葉である.し
たがって,これから挙げる例は,“教育数学”の名の下で営まれたものではない.いわば,
教育数学の先駆ということになる.)
最初の例は,フェリックス・クラインの『高い立場から見た初等数学』 (
[
1
0
]
) という著
作の,特に第 1巻である.クラインは 1
9世紀後半から 20世紀初頭にかけて活躍したドイ
ツの指導的な数学者で,当時のドイツの数学教育の革新運動を主導した人物でもある.(ク
ラインと数学教育との関わりについては,例えば,文献 [
4
]を参照願いたい.)
『高い立場から見た初等数学』は,ギムナジウムの数学教員などを集めて開催した講義の
記録がもとになった著作で,学問としての数学の立場や,数学の歴史的な変遷の経緯,あ
るいは,教育心理学的な見解などにもとづいて,現行の学校数学の内容の批判や,あるべ
き形について“論じた”ものである.(クラインの議論の前提となった学校数学の現状につ
いては,やはり,講義をもとに,『高等学校における数学の教育に関する講義』 (
[
9
]
) という
著作にまとめられている.)
また,クラインは,学校教育における数学について“論じた”だけではなく,具体的な
教育課程についての提案もしている.さらに,クライン自身が著したものではないが,彼
の指導の下で,ギムナジウムの数学用教科書である『現代的原理にもとづく数学の教科畠
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)』が作成されている.なお,こ
の教科書は, 1
914年に,文部省から『新主義数学』という表題で日本語訳が出版されてお
り,その影響は,今の中学や高校の数学にまで及んでいる.
次に挙げたいのは,藤澤利喜太郎の『算術條目及教授法』 (
[
1
])という著書である.藤澤
は,明治のはじめ, ドイツ留学を通じて,当時の学問の最前線にあった数学を日本にもた
らした人物である.藤澤は,日本に帰国後,数学教育にも熱意をもって取り組んだが,そ
の成果のひとつが,この書物に結実している.(藤澤も,クライン同様,教員対象の講習会
を開催しており,その講義録『数学教授法・講義筆記』 (
[
3
])も出版されているなお,藤
澤の『算術條目及教授法』については,文献 [
6
]も参照されたい.)
クラインが力を注いだのは中等教育における数学教育の問題であり,藤澤の『算術條目
及教授法』も,(今の日本の教育過程から消えてしまったため,わかりにくくはあるが)中
等教育における“算術”について論じたものである.藤澤は,こうした‘‘論”にもとづい
て,自分自身で『算術教科書』 (
[
2
])を著している.
クラインが『高い立場から見た数学』で,藤澤が『算術條目及教授法』で,行ったこと
は,ひとことで述べれば,学校数学の現状の不適合な諸点についての検討を通じて,より
適合的な形態に向かおうとすることであった.(“現行の学校数学の不適合”のうち,最大
のものは,クラインにとっては“エウクレイデス的な論証数学”だったし,藤澤にとっては
“理論流儀算術”であった.)
いずれにしても,ここで挙げたクラインや藤澤の著作は,教科書という意味での“標準”
ではない.また,必ずしも,それ自体が教科書を執筆するための直接的なクライテリアを
与えるといったものでもない.(クライテリアというなら,むしろ,学校数学を論じるため
に,より“高い”立場にあるクライテリアを用いているといった方が良いかもしれない.)
筆者は,「教育数学」の名の下で,クラインや藤澤が実行した“論じること”を,より組
4
28
織的に行いたいと考えている.
1.4 論議の規準
一般に,組織的に論議 (
argument) を行うためには,さまざまな規準 (
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)が
必要だと考えている.そうした‘‘規準’'は,以下のような種類に分けられると便利である汽
1
. 論点型 (
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議論の場を限定して整序し,論じることの方向性を見出すための観点となるもの.( 2
.
1
節を参照のこと.)
2
. 論法型 (ReasoningType)
これは,さらに,帰納型 (EpagogeType) と推論型 (
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mType) に分れる.
「帰納」とは,実践の場と論議の場を関係づける鍵となるもので,実践によって得ら
れた経験を,一般化(共同体で共有)するために,論議の場に提示することをいう.
一方,「推論」の方は,ある見解から別の見解を導出することである.ある見解がしか
るべき論拠から推論によって得られることが,通常,“分析”であるとか,‘‘理解”や
“解明’'という言葉が意味するところの本質であると考えられる.
3
. 論拠型 (PremiseType)
見解の妥当性を推論によって示すための根拠となる見解群のこと.(その実体について
は,脚注 28を参照のこと. )
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cType) と特用型 (
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cType) に分けるこ
論議の規準は,さらに,汎用型 (
とができる.
なお,それぞれ型がどういうものであるかについて,本稿では,次章の具体例で説明に
替えることにして,詳細については別の機会を侯つことにことにしたい.
2
「学校数学」を論じる
本章では,教育数学における論議の“見本”を提示してみたい.(この“見本’'は,模範
の方ではなく,ショーウインドウに飾る方のものである.)取り上げる素材は,「学校数学」
である.ここで,「学校数学」は,主として,初等中等学校の教科としての「数学」を指す.
日本の場合なら,教科名としては「算数」も含まれる.なお,以下の論は,多くの場面で,
高等教育にも適用可能である.
3正確には,‘‘種類に分ける”というより,“枠式”と考えるべきである.なお,枠式については, 2
.
3節を参
照のこと.
5
29
2
.
1 論点型規準の役割
まず注意しておきたいことは,筆者は,本章で,多様な要素を複合的かつ重層的に包含
する「学校数学」が抱える様々な問題を,総体的に論じようとするわけではない.
ここで筆者が試みようとしていることを,問題解決という方向から述べれば,ある問題
について,その問題に関係する事象群の多様性を適当な観点から整序することで,問題の
持つ本質的な性格を単純化して表現し,そこから解決に向かう方向性を見出す指針を取り
出そうということにある.
なお,ここでいう‘‘観点’'は,第 1
.
4節でいう“論点型規準”である.論点型規準は,こ
のように,論誡を整序する役割をもつことになる.
例えば,「学校数学」について,しばしばなされる非難に,「学校で習った数学など,社会
に出てから一度も使ったことはない」というものがある 4.こうした見解には,“多様な”
立場から反論ができるし,実際になされている.しかし,ここで,これから行いたいのは,
この見解について直接論じるのではなく,この見解をより広い状況のなかに組み込み,そ
の状況を上で述べたように整序することで,‘‘解決法”を探ることである.
2
.
2 課題の設定_‘‘原理”という論点
論議を始めるにあたり,引用の便を考え,先に述べた“非難”の代表として,次の“見
解”を提示しておこう.
[見解 A]: 「仕事で数学を使う立場からは,学校で教えている数学は役に立たない.」
次に,‘‘舞台を拡げる”ため,「学校数学」について,巷間しばしば耳にする,批判的とい
うより,むしろ好意的とも思われる立場からの,次の二つに代表されるような見解も提示
しておこう.(こうした見解は,試験の公平性を必要とする各種競争試験や,公平性や説明
責任を強調する教育制度にあって,「数学」が好まれる理由のひとつになっている.)
[見解 B]: 「数学の問題は,順を追ってゆけば,誰でもわかるように解ける.」
] :「数学の問題は,採点者の主観と関係なく,答えの正誤が決まる.」
[見解 C
本章の具体的な課題は,上述の“見解’'の妥当性について検討し,その上で,特に,見解
Aの“非難”を回避し得る解決法を求めることである.
ここで,本章の論議の流れを見ておくことにしよう.
まず,諸見解の妥当性の検討について,筆者は,「学校数学」に関連する事象群に,“単原
理型と複原理型”からなる枠組(この枠組を「原理の枠式門と呼んでいる)を導入するこ
4高等教育における同エ異曲に,「基礎教育として数学者が教える数学は,工学部では役に立たない」といっ
た類のものもある.
5 、‘枠式’'という用語を使うとき,この枠組を構成する「単原理型」と「複原理型」といったそれぞれの要
素は,一般に,“型式”と呼ばれる.
6
30
とで,その枠式に対応する観点に限定されたものではあるが,なぜこうした見解が出てく
るかを明確化できると考えている.なお,この“原理”という“(汎用型の)論点’'が,ひ
とつの論点型規準ということになる.
結論として, 2
.
6節では,「見解 B は,学校数学を単原理型と見ている」ことのあらわれで
あり,「見解 C は,単原理型と見なす立場から,学校数学と学校教育の適合性が高い」こと
を,そして,「見解 A は,(主張する人の)仕事で使用している数学が複原理型の特性を強く
もっている」ことのあらわれと“解される”ことになる.
そして,「なぜか」がわかれば,見解 Aのような否定的な意見についても,「それでは,役
に立つようにするには,どうすれば良いか」と問い直し,さらにその解決法を探すことに
貢献できるだろうとも考えている (
2
.
7節).
それでは,次の技術的な補足節を挟んで, 2
.
4
.
1節以降に,こうした‘‘論議’'の輪郭を示
してみたい.
2
.
3
「枠式」について補足
単原理型や複原理型といった型式りま,前節で,数学や教育を「∼と見なしている」,数
学や教育が「∼の特性を強くもつ」等々と述べたように,数学なり教育なりといった考察
の対象としている事象群の,ある観点から焦点をあてたい特性を組として取り出し,対比
的な差異を強調するように抽象化して名称を付したものである.したがって,型といって
も,いわゆる類型でない.つまり,数学の全体が単原理型のクラスと複原理型のクラスに排
反に分割できる,といったことを主張しているわけではない 7. 以上の了解のもとで,以下
では,簡単のため,「∼と見なしている」,「∼の特性を強くもつ」といった言い方をせず,
単に,「単原理型の数学」であるとか,「複原理型の教育」という言い方をすることも多い.
ところで,次節からの説明では,「原理の枠式」が本章の問題を解決するために導出され
たように見えるかもしれない.しかし,これは,説明の便宜のためで,本来,こうした枠
式は,個々の問題を超えて準備されたものであり,様々な状況に適用可能な汎用性の高い
ものとして設定されていることを強調しておきたい.(例えば,「学校数学」についてであっ
ても,別種の課題であれば,別の枠式を適用することになる.逆に,枠式を適用すること
は,新たな課題を発見するために用いることもできる.)同様に,最も汎用性が高いものと
して,今,筆者が仮に運用している枠式の一覧を付録に掲載しておいた.
それでは,これから,「学校数学」についての 2
.
2節の課題をめぐる,“見本’'としての論
議を開始することにしよう.
5を参照のこと.
噴しくは,文献 [
8
]を参照されたい.
6脚注
7
31
2.4
「原理の枠式」について
2
.
4
.
1 二種類の「数学」
現代日本の数学者にとって,「数学」の最も里要な特徴は,“公理的演繹体系の体裁”にあ
るといっても良いだろう.ここで“体裁”と言っているのは,公理系が実際どのようなもの
で,それが無矛盾だとか完全だとかの厳密な話ではなく,「数学」がそういう体系であるべ
きだという意識が共有されているといった意味合いにおいてである凡
他方,古来から,「数学」とは「公式とその適用法の集成」であるといった見方もある.こ
の数学観は,“公式”を“モデル”と読み替えれば,現在においても,工学系を含む多数の
ユーザー
数学の使用者にとっての標準的なイメージといって良いのではないだろうか.
「数学」を“一種の公式集”とみたときに,例えば,古代の「数学」では,特に求積関
係の公式は,経験から導かれた(と推測される)法則を含んでいることも珍しくなかった.
実際,円周率として複数の値 9が併用されている場合 10 も,そうした“値”の採用は,計
測の精度との関係等々で決定されたであろうことが推量される.つまり,この数学観では,
形式的な整合性という“原理 '
,
1
1だけではなく,経験との整合性といった別の“原理”が併
用されていると思うことができる 12,
2
.
4
.
2 理論と実践
前節で述べた二種類の数学観は,端的に,“理論型”と“実践型’'と呼ぶことができる.例
えば,クラインの著名な『 1
9世紀における数学の発展についての講義 (
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)』におけるガウスについての評を
参照してみよう.(以下,引用は,『クライン: 1
9世紀の数学』 F
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n著,彊永昌吉監
修,足立恒雄・浪川幸彦監訳,石井省吾•渡辺弘訳,( 1995) 共立出版株式会社,による.)
クラインは,ガウスが小惑星パラスの軌道を決定しようとした際の挿話に関連して,次
のように述べている.
さてガウスはどのような方法でこれらの重要な結果を導いたのであろうか.彼
以前のすべての数学者や天文学者と同様に,彼も無限三角級数を利用する.し
かしその変数は目的に合わせて選択され,一方,その係数は定積分の数値的評
価(機械的求積法)によって得られる.ところでガウスは 1
8
1
2年の超幾何級数
に関する研究の中で,初めて精密な収束判定条件を設定した人だから,有限個
の級数項だけを用いる際に生じる誤差を評価したであろうと想像するなら,あ
る種の失望を禁じ得ないであろう.そうした慎重さは見られないのである.そ
8 後述するように,こうした数学観を,異なる数学観と対比的に,「単原理型」ということにする (
2
.
4
.
3節
を参照).
,近似値という概念がありそうでもなく,したがって,唯一の値としての円周率という概念自身がないよう
に思える.
10今の日本でも,初等教育での円周率の近似値が 3
. ...