ビタミンB1欠乏を中心とした必須栄養素欠乏による記憶障害誘導機構の解析とその改善方法の開発
概要
必須栄養素の多くが脳機能に特異的役割を示すため,必須栄養素の摂取不足は,認知症や精神疾患をはじめとする脳疾患発症の環境原因となっている。そこで,脳機能と栄養素の関連性,さらに,必須栄養素の摂取不足が脳機能障害を導く機構の解明が望まれている。
ビタミン B1 (B1) は糖代謝や ATP 産生に必須な補酵素であり,グルコースをエネルギー源とする神経系の機能維持に重要である。B1 欠乏は脚気を引き起こすが,この運動障害は B1 補給により速やかに改善される軽微な症状である。一方,重度の B1 欠乏は永続的な記憶障害を後遺症とするウェルニッケ・コルサコフ症候群を引き起こす。所属研究室では,栄養・薬理学的手法を用いて B1 欠乏による記憶障害のメカニズムが解析され,その結果,B1 欠乏を経験したマウス(B1 欠乏回復マウス)では,記憶の中枢である海馬における神経細胞数の減少と樹状突起スパイン密度の低下,さらに,海馬依存性の記憶形成能力の障害が観察された。このように,B1 欠乏により海馬における神経変性を介して記憶障害が引き起こされることが示唆されている (Inaba et al., 2016) 。しかし,B1 欠乏による海馬神経変性から記憶障害に至るまでの一連のメカニズムは不明である。一方,Mg²⁺は,NMDA 型グルタミン酸受容体における Ca²⁺ 流入のスイッチ的役割を果たしており,記憶形成に伴う神経可塑性の調節に貢献している。所属研究室では,食餌性 Mg²⁺欠乏させたマウス (MgD マウス)の解析が行われ,Mg²⁺欠乏により,海馬の樹状突起スパイン密度には変化が観察されなかったものの ,B1 欠乏と同様に海馬依存的記憶形成能力の障害が引き起こされることが明らかにされた(Serita et al., 2019)。
以上の背景から,本研究では,次世代シークエンサーを用いた RNA-sequencing(RNA-Seq)によるトランスクリプトーム解析により,必須栄養素群の欠乏により引き起こされる海馬依存記憶障害が導かれる機構を解明し,さらに,B1 と Mg²⁺欠乏の比較により必須栄養素欠乏による記憶障害機構の共通性と特異性を理解することを目的とした。続いて,本研究で得られた研究結果に基づき,B1 欠乏誘導性記憶障害の改善を試みた。
1. ビタミン B1 欠乏による記憶障害の誘導機構の解析とその改善方法の開発
B1 欠乏時の,また,B1 欠乏から回復したマウス海馬のトランスクリプトーム解析により, B1 欠乏により海馬の神経変性と記憶障害が引き起こされる機構の解析を試みた。さらに,この解析結果に基づいて B1 欠乏による記憶障害の発症を阻害する方法の開発を試みた。
1-1.トランスクリプトーム解析を用いたビタミン B1 欠乏による記憶障害の誘導機構の解析
B1 を除いた欠乏食を 10 日間給餌し,この間 B1 のアンタゴニストであるピリチアミン(0.5mg/kg)を連日腹腔内投与することで(B1 欠乏処置),マウスに B1 欠乏を誘導した(B1欠乏マウス)。B1 欠乏処置後,チアミン(100mg/kg)を腹腔内投与し,その後 3 週間以上通常食を給餌し,B1 欠乏から回復させた(B1 欠乏回復マウス)。海馬から抽出した total RNAから調整した cDNA ライブラリを RNA-seq 解析に供した。その結果,対照群と比較して, B1 欠乏マウスでは 1596 遺伝子,B1 欠乏回復マウスでは 16 遺伝子の mRNA 発現量の有意な変動がそれぞれ観察された。以上の結果から,マウス海馬では,B1 欠乏により多量の遺伝子群の発現変動が誘導され,一方,B1 欠乏からの回復によりこれらの発現変動も回復することが示唆された。
続いて,B1 欠乏により影響を受ける生物学的現象や生物学的プロセスを同定するため, RNA-seq 解析結果を用いて Ingenuity pathway analysis (IPA) また,Gene Set Enrichment Analysis (GSEA) の Gene Ontology (GO) 解析を実施した。IPA と GSEA の結果共に,B1 欠乏マウス海馬では,対照群と比較して炎症関連遺伝子集団の発現量の有意な増加とシナプス伝達関連遺伝子集団の発現量の有意な減少が観察された。そこで,これらの遺伝子集団の中で RNA-Seq 解析において有意な発現変動を示した遺伝子の発現量を定量的 RT-PCR を用いて検証した。その結果,B1 欠乏マウスでは GO 解析結果に一致して,TNFαを中心とした 12個の炎症関連遺伝子群の mRNA 発現量の有意な増加が観察された。この結果に一致して,炎症作用を示す M1 ミクログリアのマーカー遺伝子 Cd16 と Cd32 の mRNA 発現量にも有意な増加が観察された。この結果に対して,B1 欠乏回復マウスではこれら遺伝子群の発現量の変化は認められなかった。一方,シナプス伝達関連遺伝子群に関しては,B1 欠乏マウスでは Homer1 をはじめとする 17 個の遺伝子群の有意な発現減少が観察され,B1 欠乏からの回復後にも,一部の遺伝子群(Homer1,Homer2,Akap5,Scn2b) に有意な発現減少が引き続き観察された。以上の結果から,B1 欠乏により炎症関連遺伝子群の発現量増加とシナプス伝達関連遺伝子の発現量低下が誘導され,B1 欠乏からの回復後にもシナプス関連遺伝子群の発現量の低下は継続されることが示された。以上の結果をまとめると,B1 欠乏により脳内炎症が誘導され,B1 欠乏からの回復により脳内炎症は治まることが強く示唆された。一方,シナプス関連遺伝子群の発現低下は B1 欠乏からの回復後も継続して観察されたことから,これら遺伝子群の発現低下が海馬の神経変性の原因となっていると考察した。
一方,RNA-seq 解析結果では,B1 欠乏マウスと B1 欠乏回復マウスの海馬に共通して Egr1, Egr2,Arc,Npas4,Hbb-bt,Hbb-bs が有意な発現変化を示した。Egr1,Egr2,Arc,Npas は記憶形成に必要な転写活性化を導く転写因子cAMP responsive element binding protein (CREB)により転写制御を受ける最初期応答遺伝子であったため,qRT-PCR を用いてこれらの発現量を検証した。その結果,B1 欠乏マウスでは Egr1 と Egr2 のみの mRNA 発現量の有意な低下が確認されたのに対して,B1 欠乏回復マウスでは全ての mRNA 発現量の有意な低下が確認された。以上の結果から,B1 欠乏により CREB による転写活性化の障害が誘導されるとの仮説を立てた。この仮説を検証するため,CREB をリン酸化して転写活性化を導く cAMP情報伝達系の上流因子であるアデニル酸シクラーゼ (cAMP 産生酵素;Adcy1) と CREB の mRNA 発現量を qRT-PCR を用いて測定した。その結果,B1 欠乏マウスと B1 欠乏回復マウス共にCREB mRNA 発現量の有意な減少が観察され,B1 欠乏回復マウスにおいてのみAdcy1 mRNA 発現量の有意な低下が観察された。以上の結果から,B1 欠乏により誘導される CREBと Adcy1 の発現低下が CREB 情報伝達系の不活性化を導き,その結果,記憶障害が引き起こされること,さらに,B1 欠乏回復後に CREB 情報伝達系の障害がより顕著になり,永続的な記憶障害の原因となると考察した。
1-2.CREB 情報伝達系活性化によるビタミン B1 欠乏誘導性記憶障害と海馬神経変性の改善の試み
1-1 より,B1 欠乏による海馬における CREB 情報伝達系の不活性化が記憶障害の原因となる可能性が示された。そこで,この情報伝達系の活性化が B1 欠乏誘導性記憶障害を改善するのではないかと仮説を立てた。この仮説を検討するため,所属研究室で開発された前脳領域特異的に活性型CREB 変異体を発現するマウス (DIEDML マウス; Suzuki et al., 2011) に B1 欠乏を誘導し,行動学的解析と神経細胞の形態学的解析を行った。まず,神経細胞の形態学的解析では,神経細胞特異的に蛍光タンパク質 GFP を発現させた Thy1-GFP マウスと DIEDML マウスを交配させ,ダブルトランスジェニックマウス (Thy1-GFP/DIEDML マウス)を作製し,10 日間の B1 欠乏処置直後の海馬歯状回における樹状突起スパイン密度を測定した。その結果,B1 欠乏 Thy1-GFP マウスでは対照群に比較して樹状突起スパイン密度の有意な低下が観察されたのに対して,B1 欠乏 Thy1-GFP/DIEDML マウスでは,この樹状突起スパイン密度の低下が観察されなかった。従って,B1 欠乏誘導時の CREB 情報伝達系の活性化によりスパイン密度の低下が妨げたれることが示された。次に,社会認知記憶課題を用いて海馬依存性記憶形能力を評価した。トレーニングでは,記憶能力を評価する成熟マウスのケージに同姓の幼若マウスを 3 分間入れ,この間に成熟マウスが幼若マウスに対して鼻先を接触する探索行動を示した時間 (investigation time) を測定した。この 24 時間後に同じ組み合わせのマウスを用いてトレーニングと同様に investigation time を測定した(テスト)。その結果,B1 欠乏回復野生型マウスでは,トレーニングとテストにおける investigation timeが同程度であり,幼若マウスに対する社会認知記憶が認められなかったが,B1 欠乏回復 DIEDML マウス及び対照群では,テストではトレーニングに比べて investigation time が有意に短くなり,社会認知記憶が認められた。従って,B1 欠乏回復 DIEDML マウスでは正常の社会認知記憶能力が認められること,すなわち,B1 欠乏による記憶障害が観察されないことが示された。以上より,CREB の持続的な活性化により B1 欠乏による記憶障害と海馬神経細胞の変性が改善されることが示唆された。
1-3.B1 欠乏処置をした DIEDML マウス海馬のトランスクリプトーム解析
1-2 から,CREB 情報伝達系の活性化が B1 欠乏誘導性の記憶障害と海馬神経変性を妨げることが示唆された。そこで,B1 欠乏による記憶障害と神経変性を妨げるのに寄与した分子機構を探索するため,B1 欠乏処置した DIEDML マウス海馬のトランスクリプトーム解析を行った。DIEDML マウスに 10 日間の B1 欠乏処置を施し,B1 欠乏直後に,DIEDML マウス海馬から,cDNA ライブラリを調製後,RNA-seq 解析に供した。RNA-seq の解析結果に基づき,DIEDML マウスと野生型マウス海馬において B1 欠乏による海馬神経変性と記憶障害を妨げるのに寄与した生物学的現象や生物学的プロセスを同定するため,GSEA による GO解析を行った。その結果,B1 欠乏 DIEDML マウスでは,B1 欠乏野生型マウスと比較して,炎症関連遺伝子集団の発現量の有意な低下が観察された。観察された炎症関連遺伝子集団のうち,有意な発現量の低下を示した遺伝子を qRT-PCR を用いて発現量の測定を行った。その結果,B1 欠乏 DIEDML マウスでは,B1 欠乏野生型マウスと比較して,免疫細胞を移動させることにより炎症を誘導させるケモカイン Ccl7 を始めとする炎症関連遺伝子の発現量の有意な低下が観察された。以上より,B1 欠乏DIEDML マウスにおいて,野生型マウスと比較して発現量の有意な減少が観察された炎症関連遺伝子が,海馬神経変性を妨げ,その結果,B1 欠乏誘導性記憶障害が誘導されなかったと考察した。
1-4. 結論及び考察
以上より,B1 欠乏により海馬に脳内炎症が誘導され,その結果,神経細胞の変性を引き起こし,CREB 情報伝達経路の不活性化が起こり,その結果,記憶障害が導かれることが示唆された。さらに,CREB 情報伝達系の活性化が B1 欠乏による記憶障害と海馬神経変性を妨げたことから,B1 欠乏が CREB 情報伝達系の不活性化を介して慢性的な記憶障害を誘導するメカニズムの存在が強く示唆された。また,CREB 活性化が B1 欠乏により誘導される一部の炎症関連遺伝子の発現増加を抑え,その結果,B1 欠乏により誘導される炎症応答を抑制し,最終的に海馬神経変性と記憶障害を妨げたことが示唆された。
2. Mg²⁺欠乏誘導性記憶障害のメカニズムの解析
Mg²⁺欠乏により誘導される記憶能力障害のメカニズムを理解すること目的として,1 と同様にMg²⁺欠乏食を給餌したマウス (Mg 欠乏マウス) 海馬のトランスクリプトーム解析を行った。Mg²⁺欠乏食を 6 週間給餌させたマウス海馬から調整したcDNA ライブラリを RNA-seq解析に供した。その結果,Mg 欠乏マウス海馬において 836 遺伝子の発現量の有意な変化が観察され,この中で発現量の増加または低下を示した遺伝子 ( fold change > | 2 | ) はそれぞれ 156 と 66 個であった。続いて,IPA と GSEA による GO 解析を行った結果,Mg 欠乏マウス海馬では,炎症関連遺伝子集団の有意な発現増加が観察され,B1 欠乏と同様に Mg 欠乏により脳内炎症が引き起こされることが示唆された。さらに,炎症関連遺伝子群を中心に発現変動をqRT-PCR を用いて検証した結果,炎症性サイトカインの発現を促進させる Angptl7を含めて 6 個の免疫・炎症関連遺伝子群の有意な発現増加が観察された。一方,B1 欠乏マウスの結果とは対照的に,炎症作用を示す M1 ミクログリア のマーカー遺伝子(Cd16,Cd32)の発現量の有意な変化は観察されなかった。以上の結果から,Mg2+欠乏は,海馬において M1 ミクログリアの活性化を導かないものの,炎症関連遺伝子群の発現増加を引き起こすことが示された。
以上の結果から,Mg 欠乏は,B1 欠乏の場合と同様に,海馬において炎症関連遺伝子の発現量を増加させて脳内炎症を誘導することが強く示唆され,脳内炎症が Mg 欠乏による記憶障害の原因となることが考察された。しかし,B1 欠乏の場合に比較して,発現増加を示す炎症関連遺伝子の数も少なく,また,発現増加の度合いも小さいこと,また,M1 ミクログリアの活性化も示唆されなかったことから,Mg 欠乏では弱い脳内炎症が引き起こされたことが示唆された。このように,Mg 欠乏では弱い脳内炎症しか誘導されなかったため,海馬の神経変性が起こらなかったものと考察された。
4.総括
本研究から,B1 及び Mg 欠乏により誘導される海馬依存性記憶障害の共通メカニズムとして脳内炎症が示唆された。さらに,高脂肪食を摂取したマウスでは海馬依存性記憶の障害,脳内炎症,海馬神経細胞の変性が観察された最近の知見とあわせて,B1 欠乏後にみられるような強い脳内炎症が海馬の変性を導くことが示唆された。一方,CREB 情報伝達系の活性化が B1 欠乏により誘導される記憶障害と神経変性を妨げることが示唆されたことから,必須栄養素の摂取不足による記憶障害の改善方法として,脳内炎症の阻害に加えて,CREB 情報伝達系の活性化が有効であることが示唆された。今後,必須栄養素の摂取不足による海馬依存性記憶障害に対する治療・改善法の確立に期待したい。