中井久夫先生の手紙
概要
中井久夫先生とのご縁はギリシアへの関心と興味、この一点につきる。ただし興味を持つ方向は先生と違っていた。先生は、近代ギリシア世界を代表する詩人コンスタンディノス・カヴァフィスをはじめ、近現代のギリシア詩人の作品に惹かれ、熱心にその翻訳に取り組まれた。私は、近現代ギリシアの歴史に興味を抱き、これまで研究をつづけている。先生が医師という本業のかたわら、ギリシア文化の領域に足を踏み入れることがなければ、私は先生のお名前に触れることすらなかったかも知れない。
私は中井先生に実際にお会いしたことはない。だが、訃報に接した時、にわかによみがえった記憶がある。私は、たった一度きりではあるが、先生と手紙のやり取りをしたことがある。もうずいぶん前のことで、残念ながら先生からのお手紙は今も探しだせずにいる。ただしその内容は、今もよく記憶している。
私は大学院在学中、十九世紀のディアスポラのギリシア人に興味を持った時期がある。エジプトのアレクサンドリアにあったギリシア人コミュニティのことを調べ、その時カヴァフィスに出会った。カヴァフィスの詩が日本語に訳されていることを知った私は、早速中井先生の訳書を手にとり、ギリシア語の原文と突きあわせながら、一つひとつ読んでいった。ギリシア語を読むのにとても苦労していた当時の私にとって、歴史書よりはるかに難解なギリシア語の詩のことばが、その深く意味するところまで日本語に移されているのは、大きな驚きだった。まだ若い私には、先生のすぐれたギリシア語力がうらやましかった。しかも訳者である先生は、ギリシア文学の専門家ではなく、医師であるという。これにはさらに驚かされた。