ネパールにおける少数民族母語教育の課題 : ネワール族学校を事例として
概要
本研究は、ネパールの少数民族ネワール族を事例に、途上国における少数民族の母語教育の意義と課題を分析した実証研究である。国連ユネスコの報告によると、現在世界には約6,000の言語が存在するが、その内約2,500の言語が消滅の危機に瀕している。少数民族の言語が消滅することは、人類の文化の多様性が失われることである。世界各地の風土条件の中で長い年月をかけて形成されてきた言語が失われることは、その固有の環境を人間が分節化して理解する手段が失われることであり、環境と人間の係りがより粗雑となり、生物種も含めた環境の多様性が失われる問題も孕んでいる。ネパールのような多民族国家において一つの国家言語が定められることは、そこに居住する少数民族にとっては、全国統一的な国家言語による教育体制に組み込まれることであり、自分たちの母語による教育の機会が失われることである。少数民族にとっては学校での一般の教科教育の学習が不利になるだけでなく、少数民族のアイデンティティ形成においても障害となることが懸念されている。
多民族国家における言語は、支配的な階層および宗主国の影響をうけ、国家的統一と近代化の過程で多数派の言語教育に画一化される。そこには国民統合のための言語の統一、教育的言語の一元化による効率化、すなわち経済合理性が働いており、ネパールもその過程をたどって来た。国家の統一と近代化という観点から、一時的に効果をあげる言語の一元化は、近代国家としての社会の充実、民主主義の実現による国民生活の向上、そして経済発展に少数諸民族が本格的に参加する段階で、たちまち限界を露呈する。すなわちカースト間・民族間の貧富の格差が、人材育成の矛盾として顕在化するからである。エスニシティのアイデンティティの喪失は、少数諸民族の共同体を崩壊させ、それはまた学校教育における学力格差として顕われる。
出身カーストおよび出身民族にプライドが持てないことは、就学と学習意欲の喪失・ドロップアウトとして現出する。このようにして、言語の一元化・画一化による教育は、かならずしも人材育成の効果を発揮し得ない。特に初等教育においては、生徒の自己肯定感は民族的な自覚によるところが大きく、民族性の否定が劣等感や就学意欲の低下、学力格差として現れる。
少数民族の母語教育は、言語権に関わるテーマでもある。人権および多様性社会にとって、民族母語の喪失は重大な問題である。この論点について、本研究は言語権の原理的な抽出を行ない、少数民族母語教育を研究する根拠として提起した。先行研究のレビューと併せて、このテーマを強調した。教育学において明らかになっている母語に習熟することが共通語(ネパール語)や第二言語(英語)の学習と相乗効果を持つことの実証も試みた。
筆者は1995年よりネパールの教育支援に参加してきたが、高度な技術教育もそのカギは子供たちの初等教育にあるのではないか、とりわけ少数民族にとってはその母語教育にあるのではないかと考えるようになった。
本研究では、1990年にネパールで初めて少数民族の母語教育を掲げて設立されたネワールのジャガット・スンダル学校(JS校)のこれまでの経緯を振り返ることを通じて、少数民族にとっての母語教育の意義とそれが現在直面している課題を検討した。
低所得家庭の生徒が多く通う小学・中学からなるJS校であるが、設立当初から日本の支援団体HIKIB♙から教育支援を受け、ほとんどの学生に奨学金を支給していることもあり、落第生や退学生もほとんど出さず、10年生の郡卒業試験も全員合格という高い教育効果をあげている。この背景には小学校からネワール族の母語教育を行っているため、一般の教科教育の理解度が上がっていることもある。生徒の学力程度がほぼ等しく、ネワール族居住区に位置し、母語教育を行っていない私立のビンダバシニ中学校(BS校)との比較において、JS校の生徒はネワール語の上達の程度が高く、またネワール族としての自覚や誇りも強く、母語教育によるアイデンティティ形成の促進効果が認められた。
設立当初からネワール族に熱烈に支持されてきたJS校であるが、最近では生徒数減少の問題に直面している。この背景には、海外出稼ぎ者の海外からの送金に大きく依存するネパールの経済構造の中での英語教育重視の情勢がある。少数民族の母語教育の継続とグローバル経済化への対応としての英語教育の充実をどのように図っていくのかが、現在JS校が直面している最大の課題となっている。