生理学的及び進化生態学的観点からみた代替生活史戦術に関する理論的研究
概要
自然界には同種にも関わらず個体ごとに異なる生活史を採用する生物が存在する。この現象は代替生活史戦術と呼ばれ、様々な分類群で知られている。代替生活史戦術は状態依存戦略によって説明される。これは、2 つの戦術の適応度がそれぞれある状態の関数として表すことができるとき、ある状態の個体はより適応度の高い戦術を採用するという考え方である。適応度関数の交点(閾値) を境に採用される戦術が入れ替わり、このことが代替生活史を実現している。サケ科魚類に属するサクラマスも代替生活史戦術を示す。サクラマスは河川で繁殖し、孵化後一部の個体は孵化した当年に河川で成熟するが(残留型)、他の個体は、海に降り成熟する(降海型)。これまでの研究では個体の状態を表す状態の指標として体サイズを用いており、大きい稚魚ほど残留型となる傾向があるとされている。
本論文ではモデル生物にサクラマスを用いて、代替生活史戦術のような明瞭な形質の違いがどのように現れるのかを調べた。また、世代を通した履歴効果によって生活史選択にどのような影響を与えるのかを調べた。
第 1 章では代替生活史戦術がどのように形作られていくのかについて生理動態モデルを構築することで明らかにした。遺伝子発現による形質の発現の違いは個体内部の状態の違いによって決まると考えるのが自然である。特にサクラマスの成熟による形態・行動の変化にはテストステロンなどの成熟因子群のはたらきが関与しており、稚魚の早期成熟や残留を促す。成熟因子群は個体間の闘争で勝利することで産生量が増加し、稚魚の成熟を促進する。本章では体サイズが大きく、成熟因子のホルモンが多い稚魚ほど個体間での闘争の勝率が大きくなり、勝利した稚魚はより成長しやすく、成熟因子の産生量も多くなると考えた。構築した数理モデルを用いて、成熟因子群がふた山に分かれるために必要な条件を調べた。その結果、代替生活史戦術が発現するためには闘争の結果とホルモン産生の間の正のフィードバックが強く働くことが必要であることが分かった。
第 2 章では残留型成魚による稚魚の成長抑制が個体群動態に与える影響(履歴効果)について解析を行なった。河川では、餌場を奪い合う干渉型競争が知られており、栄養価の高い餌がある川の表層付近は大型個体により占められ、小型個体は川底の餌を食べる。このことから、我々は河川内での残留型成魚の個体密度が大きいほど稚魚の成長が抑制されると仮定し、河川での密度依存的な稚魚サイズモデルを構築した。本章では、数理モデルを用いて密度依存的成長抑制が生じた際にサケ科魚類の生活史意思決定に関して、戦術の動態と、閾値の進化にどのような影響が及ぼされるかを調べた。その結果、生態的な影響として、稚魚の成長抑制の強さによって戦術の安定性が変化し、毎年の降海型割合ある値に安定する場合と、大きく振動し続ける場合が見られることが分かった。また、閾値の進化における影響として進化の結果が双安定となり、初期値によって異なる値に収束することが分かった。この時、降海型割合は収束した閾値の値によって全く異なる挙動を示した。
第 3 章では、第 2 章で扱った密度依存的な稚魚サイズモデルを用いて、一方向的な環境変動による意思決定動態への影響を調べた。サクラマスなどのサケ科魚類は水産資源として非常に重要視されており、温暖化等による環境変動の影響を予測することは非常に有用である。温暖化の影響によって魚類の体サイズが変化することが予想されており、この変化はサケ科魚類の生活史選択に大きく影響を及ぼすことが考えられる。本章では一方向的な環境変動によって稚魚の体サイズが年ごとに大きく(または小さく)なると考え、数理モデルの改良を行った。環境変動とともに閾値形質の進化が生じない場合と進化が生じる場合を考え、残留-降海の割合がどのように変化するのかを調べた。その結果、閾値の進化が生じない条件では残留-降海の割合は大きく変化した。また閾値の進化が生じる条件では十分に進化速度が早い場合には、環境変動以前の残留-降海割合に回復することができたが、閾値の進化が環境変動に対して十分に追いつかない場合には不可逆な相変異が見られた。この結果から、水産資源の保全に対する環境変動の抑制の有用性が示唆される。