牛伝染性リンパ腫の防疫対策に関する実証的研究-和牛繁殖経営を対象に-
概要
博士論文
牛伝染性リンパ腫の防疫対策に関する実証的研究
―和牛繁殖経営を対象に―
東北大学大学院農学研究科
資源生物科学専攻
孟 源
指導教員
石井圭一 教授
目次
序論 .................................................................................... 3
1 節 研究背景 ........................................................................ 3
1) 牛の伝染性リンパ腫とは ........................................................... 3
2) 法定伝染症と届出伝染症 ........................................................... 9
2 節 牛の伝染性リンパ腫の清浄化事例の整理 ........................................... 10
1) 牛の伝染性リンパ腫ウイルスの伝染率とコントロール方法 ............................ 10
2) 防疫対策によるコスト ............................................................ 11
3) 欧州諸国の清浄化事例 ............................................................ 14
3 節 宮城県における EBL 対策 ......................................................... 18
4 節 先行研究 ....................................................................... 19
1) EBL に関する自然科学と社会科学の研究 ............................................ 19
2) 農家の行動理論 .................................................................. 19
3) 研究目的 ....................................................................... 21
第一章 損失最小の清浄化方法の試算 ..................................................... 22
1 節 研究背景 ....................................................................... 22
2 節 研究方法 ....................................................................... 23
3節
4節
分析結果 ....................................................................... 27
考察 ........................................................................... 28
第二章
血液検査の意欲への影響要因 ..................................................... 30
1節
研究理論 ....................................................................... 30
1) 農家の行動理論-内部要因 ........................................................ 30
2) 農家の行動理論-外部要因 ........................................................ 31
2節
調査方法 ....................................................................... 31
3節
研究方法 ....................................................................... 37
4節
変数の選択と定義 ............................................................... 39
5節
分析結果 ....................................................................... 40
1) 因子分析の結果-主観要素 ........................................................ 40
2) 因子分析の結果-環境要素 ........................................................ 43
3) 二値選択モデルの結果 ............................................................ 46
6節
考察 ........................................................................... 49
第三章 防疫対策の項目数の影響要因 ..................................................... 51
1 節 分析方法 ....................................................................... 51
2 節 分析結果 ....................................................................... 54
3 節 考察 ........................................................................... 55
第四章 感染率低減方法の採用実態 ....................................................... 57
1 節 課題設定 ....................................................................... 57
2節
3節
調査対象 ....................................................................... 57
調査結果 ....................................................................... 59
4節
結論と考察 ..................................................................... 61
1
結論 ................................................................................... 63
1 節 各章の要約 ..................................................................... 63
2 節 総合的考察 ..................................................................... 63
引用文献 ............................................................................... 64
参考文献 ............................................................................... 71
謝辞 ................................................................................... 73
博士論文の構成
序論:感染率低減事例と先行研究の概観,宮城県おける清浄化の課題
第一章:シミュレーションより全頭検査を含む
防疫対策の必要性の試算
第二章:血液検査の採用意欲に
影響する要因を定量的に検討
第一章:損失最小の清浄化方法の試算
第三章:防疫対策の採用
項目数に影響する要因を
定量的に検討
結論:宮城県における防疫上の示唆
2
第四章:感染率低減方法の
採用実態
序論
1節
研究背景
1) 牛の伝染性リンパ腫とは
牛の伝染性リンパ腫というのは, 牛の伝染性リンパ腫ウイルス(BLV)感染を原因とする地方病性牛
の伝染性リンパ腫(成牛型)(EBL)と病原微生物が不明な散発性牛の伝染性リンパ腫(SBL)の総称であ
る.EBL は日本の家畜衛生の大きな問題であり,日本国内において EBL の発生のほとんどは地方病性
EBL が占めていると言われている(小林,2017).牛は感染後,臨床症状がすぐに現れない場合が多いが,
感染源になることができる. つまり,EBL は潜伏期があり,感染牛の多くは無症状だが,感染力を持
つため,農場の日常飼養管理を緩めるにより,感染がじんわりと広がっていくことで,経営経済的な
損失を引き起こす(松田ら,2018,p160).
BLV の感染経路は水平伝播と垂直伝播の二通りが考えられる.水平伝播は血液を介する伝播を引
き起こす可能性がある.除角,削蹄,断尾,去勢,耳標等の装着などの出血を伴う作業は感染のリス
クが生じる . それか ら ,直腸 検査を実 施する際 に ,手袋 の使いま わしに よる感染 も証明さ れた
(Kohara,2006,p28).さらに,吸血昆虫のアブ,サシバエなどによっても水平伝播が生じる.一方,垂直伝播
は産道感染,乳汁感染及び胎盤感染の三つの経路があると報告されている. BLV 感染牛から生まれる
子牛の感染率は,精液・卵を介する感染の可能性はほとんどない.さらに,子宮内あるいは産道感染率は
4%以下であり,初乳,常乳による感染率は 6%―16%であることから,垂直伝染は起こりにくいと言っ
ても過言でもないと考えられる(今内,2010,p110).
BLV 感染牛が発症した場合,リンパ節が腫大するなどといった様々な症状を呈することになる.BLV
感染牛は 4~8 歳で発症することが多く,削痩,元気消失,眼球突出,下痢,便秘の症状がみられるが,有
効な治療法及びワクチンはないため,終生ウイルスが体内に残されることが示唆されている. EBL は,
口蹄疫のような急性的で甚大な被害を与える病気ではないが,いったん農場に入るとじわりじわりと
感染が広まり,病気はゆっくりではあるが確実に進行していくウイルスだと言われる. また近年では,
EBL によって生後数ヶ月の和牛が発症した事例も報告されている(小熊,2014,p424).
表
序-1
年齢
0-1 歳
1-2 歳
2-3 歳
3-4 歳
4 歳以上
EC の鍵
陽性
リンパ球数/μL
>12000
>11000
>9500
>8500
>7000
出所:西部家畜保健衛生所西讃支所のデータより作成
ELISA 法による抗体検査は,抗体保有状況を確認できる.ハイリスク牛の基準は EC の鍵により「真
症」である(表
序―1).真症は EBL に関しては,ステージが分けられている.感染したが,何も起きて
いない場合は,無症状潜伏期と呼ばれる時期である.これは,リンパ球が増えているが発症していない
3
時期である. もし発症してしまえば,死ぬことが確定するという報告も見られた.感染牛の約 70%は
リンパ球の数が増えても発症することなくその生涯を終える.
EBL は家畜伝染病予防法の改正により「届出伝染病」として規定されたため,平成 10 年以降,その
届出が義務付けられている.BLV 検査を経営者が自主的に行う場合,予算の都合上,スクリーニング検
査として初めに ELISA 法で抗体検査を行い,陽性と判断された検体のみ REAL-TIME PCR 法でウイル
ス遺伝子検出を行う.診断方法は大きく分けると,血液学的診断法,病理学的検査,細菌学的検査及び寄
生虫検査,ウイルス診断法と血清学的(生化学的)診断法の 6 種類である.感染性を有する EBL がもし
発生すれば,甚大的な損失を引き起こすため,感染の予防,早期の発見と迅速な初動対応に重点を置く
ことでさらなる効果が期待できる.
単位:% 100
80
60
40
20
0
0^1
1^2
2^3
3^4
4^5
5^6
6^7
7^8
年齢
抗体陽性率
図
指数 (抗体陽性率)
序-1 年齢の増加に伴う陽性率の変化
出所:根室家畜保健衛生所のデータにより作成
肉用牛と乳用牛は年齢とともに抗体陽性率が高くなる.さらに高齢牛ほど抗体陽性牛が多くなる傾
向が認められた.20 ゕ月齢前の陽性率が最も低く,その後月齢が上がるに従い,陽性率が高くなる傾向
があることが分かった(図
単位:頭
序―1).
5000
4000
3000
2000
1000
図
序-2
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
0
日本全国 EBL の発生頭数の推移状況
出所:農林水産省届出伝染病発生累年比較(1937~2020)より作成
NOSAI 宮城の獣医師へのヒアリング調査の結果により,BLV には主に,感染力は強いが,発症率は
4
低いタイプ;感染力は低いが,発症率は高いタイプ;感染力が強く,発症率も高いタイプ;感染力が
低く,発症率も低いタイプという四タイプが存在する. BLV は,近縁のウイルスであり,一度何かし
らのウイルスに感染した牛は,他のタイプの BLV には感染しない.そのため,もし感染しやすいタイプ
のウイルスが牛群に入ると,感染牛が増える一方である.つまり,どのタイプのウイルスが農場に入る
かによっては,農場の将来が大きく左右されるということである.
800
700
北海道
600
岩手県
500
神奈川県
400
新潟県
300
山形県
200
愛知県
100
熊本県
平成10年
平成11年
平成12年
平成13年
平成14年
平成15年
平成16年
平成17年
平成18年
平成19年
平成20年
平成21年
平成22年
平成23年
平成24年
平成25年
平成26年
平成27年
平成28年
平成29年
平成30年
0
沖縄県
図
序-3 地域別の届出 EBL 発生状況
出所:農林水産省地域別の届出伝染病発生累年比較(2001~2020)より作成
日本は 15 年間にわたって浸潤率が 23 倍近く増えたという深刻な事態にある(図
序-3).EBL によ
る経営上のリスクは主に収穫物の減少,生産資本の損失,生産コストの増加と風評被害などである.一
方では,繁殖農家にとっては,産子の減少,分娩間隔の長期化,免疫低下による疾病発生,繁殖雌牛の死
亡・廃用,診療費などの増加,育成牛の不足,餌代のコストパフォーマンスの低下及び子牛価格の低下な
どのリスクを負うことになる.他方では,肥育農家は牛の肥大の遅延と診療費などの増加,餌代のコス
トパフォーマンスの低下及び枝肉価格の低下といったリスクを負う.また,輸出制限による損失は BLV
感染が経済に与える影響のもう一つの側面である.牛の輸入に先立ち, EBL コントロールプログラム
を導入した国には,ウイルスのない証明書の提示を求める国がある.さらに,精液輸出業者も,陰性畜群
中の陰性牛からの製品を確保するために,ますます大きな圧力に直面している.
表 序-2 肉用牛と乳用牛の浸潤状況
1987 年 BLV 浸潤状況
2009^2011 年 BLV 浸潤状況
肉用牛
6
28.7
乳用牛
4.2
40.9
出所:農林水産省 EBL に関する衛生対策ガイドラインより作成
1985 年から 2011 年まで肉用牛の BLV 浸潤状況は 6%から 28%に増加し,乳用牛は 4.2%から 40%に
5
増加したことが分かった(表 序―2).
九州/沖縄
四国
中国
近畿
北陸/中部
関東
東北
北海道
0
5
10
15
北海道
東北
関東
16.8
39.9
23.7
感染率
図
20
北陸/中
部
22.4
25
30
35
40
45
九州/沖
近畿
中国
四国
20.6
27.7
10.8
42.4
60
70
縄
序-4 地域単位の乳用牛抗体陽性率
出所:農研機構の全国血清調査(2012)年の結果より作成
四国
近畿
関東
北海道
0
感染率
10
20
北海道
東北
関東
11.5
23.8
41.9
30
40
北陸/中
部
31.9
50
近畿
中国
四国
37.2
56.5
22
九州/沖
縄
64.6
図 序-5 地域単位の肉用牛抗体陽性率
出所:農研機構の全国血清調査(2019)年の結果より作成
地域別に見ると,牛の用途(乳用牛か肉用牛)とは関係なく,抗体陽性率は九州と沖縄が最も高く,北
日本が低い傾向が認められることが分かった(図
序―4,図
序―5). 他に,乳用牛,肉用牛ともに北
海道の抗体陽性率が最も低く,南に行くほど感染率が高くなるという地域差も認められた.地域の他に,
年齢との関係も見られた.高齢牛になるほど抗体陽性牛が高い傾向が認められた(柿沼,2014,p113).
北海道畜産試験場で実施した調査の結果により,陽性率についてはホルスタイン種 (35%)が黒毛和種
(12%)より高いが,初乳中免疫グロプリンについては黒毛和種(160.1mg/ml)のほうがホルスタイン種
(73.1mg/ml)より高いことが分かった.
ここで,全国における EBL の年度別発生頭数を詳しく見てみる.岩手県は平成元年をピークにその
後は減少する一方である.神奈川県は,平成 10 年の届出頭数は 2 頭であったが,その後年々増加し,平
成 27 年には 60 頭となっており,平成 28 年の 10 月末には 2,500 頭を超えていた.新潟県でも EBL の発
6
生件数が年々増加している(農林水産省消費・安全局動物衛生,2022).各地域の清浄化実験について,
新潟県下越家畜保健衛生所が平成 20 年に実施した EBL ウイルス浸潤状況調査の結果より,トンネル
換気で吸血昆虫を抑制し,外部預託をしない農家で新たな陽性牛は確認されていないことが分かった
(新潟県農林水産部・下越家畜保健衛生所).山形県では,ある公共放牧場で分離放牧(抗体陽性群用及び
陰性群用の牧区に分けて放牧する方法)を実施している.牧区をさらに小牧区に分け,各牧区間での牛
群の隣接が起こらないように実施し,吸血昆虫対策を取り,人為的感染防止を徹底したところ,陽転率
が著しく低下した事例がある(農林水産省・牛白血病に関する衛生対策ガイドライン 1).愛知県では,
年々増加する EBL の届出頭数に対して,一方では陰性牛の抗体検査を行うことで陽転率を確認し,も
う一方では,対策の効果を確認するとともに,新たに産まれた子牛の遺伝子検査を実施し,導入があれ
ば導入牛の抗体検査を実施する.このような陰性確認検査・新規牛検査を定期的に行い,清浄化を目指
していると報告された(西部家畜保健衛生所 2).熊本県では,EBL の更なる感染拡大を防止するために,
衛生対策のガイドラインを策定し,平成 28 年から農場内感染拡大防止対策及び清浄化に力を入れてい
ることが分かった3.
平成 24 年度に農林水産省の全国家畜保健衛生業績抄録消費・安全局動物衛生課が青森県の生産者を
対象に実施した調査によると,肉用牛雌牛の感染率は 79.3%であった.しかし,感染牛の淘汰による清
浄化対策は難しい.また,育成牛の舎飼いでも感染のリスクがあることが推察された.越夏前に 6 ヶ月
齢以上の子牛及び育成牛を対象に抗体と遺伝子検査を実施し,未感染牛を選別する方法が最も効率的
であると述べられている.
140
120
100
80
60
40
20
0
平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成 平成
14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
戸数
4
15
16
3
1
9
6
12
7
1
10
62
72
66
73
41
28
頭数
4
15
16
3
1
9
6
12
7
1
10
62
73
73
129
95
110
戸数
図
頭数
序-6 宮城県の届出 EBL 発生状況
出所:農林水産省地域別の届出伝染病発生累年比較(2001~2020)より作成4
1
2
3
4
農林水産省 牛白血病に関する衛生対策ガイドライン
https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/pdf/ebl_guide.pdf
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/325981.pdf
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/236056.pdf
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/104797.pdf
https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/kansi_densen/kansi_densen.html
7
南九州各県は伝統的に国内各地域への繁殖候補牛の供給元となっている地域であり,牛肉生産が盛
んな東北へも相当数の牛を提供していると考えられる.その証拠として,平成 14 年から宮城県におい
て EBL の届出頭数が増えており,特に平成 24 年から急増していたことが挙げられる(図
序―6). ...