社会関係資本としての規範
概要
社会規範という概念を使用することは,社会学者にとってはひとつの汚点のである。他の社会科学ではこの概念に不安を抱いている。政治学者は最後の手段として使用している。あるいは,経済学者がそうであるように,それを完全に無視している。Kelsen(1945)のような少数の法理学者は,法の根拠として規範の概念を採用している。しかし,法理学者は一般的に法律で具体化されていない規範に対しては無関心である。
しかし,社会学者にとって,その概念は至る所にある。社会科学百科事典に1つではなく2つの項目があり(両方とも社会学者によって書かれた),そのうちの1つは,「人間の行動の説明では「規範」ほど社会科学者によって頻繁に論じられる概念はほかに見られない」として始まる。一例として,Ralf Dahrendorf(同氏は特にこの概念に深く関わっている社会学者とは言えないが)は,「社会的不平等の起源について」においてこのように述べている:
不平等の起源は,賞罰(sanction *訳者注1)が適用される行動規範のすべての人間社会における存在として見出されるべきである…。ここで示唆されているのは,少なくとも社会理論の文脈では公理として解釈されるであろう前提(規範の存在と賞罰の必要性)へと導かれるという利点があるということである(1968)。
多くの社会学者は規範と賞罰を公理と見なすかもしれないが,他のほとんどの社会科学者や一部の社会学者にとっては容認できないデウス・エクス・マキナ(*訳者注2)の構成要素となる。社会的行動を説明するためにもたらされた概念は,大抵は対蹠的な構成要素となる。合理的選択理論家は行為について,目的のある行為者による選択の結果と見なす。社会規範理論家は,行動を規範への結果の適合として見なす。
社会学者でない者たちが規範という概念に嫌悪感を抱いているにもかかわらず,規範は存在し,行為の多くの分野で重要であり,賞罰によって支えられていることは明白である。しかし,多くの行為が規範に準拠していないことも明らかであり,社会規範理論家は,この準拠の欠如を説明するためだけに「逸脱」の概念の導入を余儀なくされている。
本稿の目的は,合理的選択の観点から規範を考察することである。それは規範が確かに存在し,確かに行動を制約し,したがって社会理論では無視できないということを認識しているからである。このようにして,規範の概念の異なる用途,合理的な選択フレームワークに適合する用途原理を築きたいと考えている。もちろん,その用途において,安易な行動解釈として規範を引き合いに出すことなしに済ませなければならない。そうでないと,規範の存在が必然的にそれ(規範)の遵守を伴うと決めてかかることになってしまう。考察すべきは,規範の出現,形成,および性格であり,それらに伴う賞罰である。よって,与えられたものとして規範を論じるのではなく,その存在,性質,規範を支持するために採用される賞罰の種類について,どのように解釈すべきか問わねばならない。理論上の問題がほとんどない合理的選択の枠組の中で,次の数段落における論点に割り当てるのを除いて,規範への服従という事項についてこれ以上論じることを控えることとする。
*訳者註1:sanction はこれまで「裁可」と訳されてきたが,Ⅲ節で,sanction は定められた行為を実行することに対する報酬
(reward)または禁じられた行為を実行することに対する罰(punishment)である,と説明されていることから,ここでは賞罰と訳している。なお,罰の意味であると明らかな場合には制裁と訳した。なお, sanction が報酬または罰である,という説明はコールマン(1990)にもある(pp.242- 243)。
*訳者註2:デウス エクス マキナ【ラテン deus ex machina】〔「機械仕掛けの神」の意〕演劇・文芸で,行き詰まった状況やむずかしい結末を必然性なく登場して解決する便宜的な役柄。また,そのような技法。エウリピデスが多用したもので,クレーンのような機械で神の役を登場させたことからいう。転じて,安易な解決策。