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書き出し

近代における公共造園空間としての神社と造園学の系譜

水内, 佑輔 MIZUUCHI, Yusuke 東京大学

2023.09.14

概要

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ۛେͶ͕͜Ζޮ‫ڠ‬ଆԄ‫ͱ͢ͳؔۯ‬͹ਈऀͳଆԄָ͹‫ܧ‬ො
Shrines as public open spaces where landscape architecture managed and its pedigree
水内 佑輔 Yusuke MIZUUCHI
東京大学大学院農学生命科学研究科

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ての機能は神社の一側面であって全てではなく,公園と相
いれない部分もある。同時に近代都市施設としての公園と

 明治神宮造営という国家的イベントの存在がなければ,

いう視点から見れば神社は公園に相応しくなく,その結果

近代造園学の構築は語れないように,造園・ランドスケー

として両者の峻別も求められるところとなっていく。

プ分野と神社との距離感は遠くない。神社をある側面から

 ところで,神社境内の荒廃という現象から分かるように,

切り取れば,すなわち公共的空間としてや,野外レクリエー

明治政府において一貫して神社が尊重されていたわけでは

1)

として,あるいは結果的に都市に残された

なかった。知識人層においても神社とは因習的空間である

貴重な緑地として関心が払われてしかるべきである。その

といったような認識が支配的であった。神社は「国家の宗

一方で,分野として体系立て正面から神社を取り扱ってい

祀」という基本方針や,官国弊社制度など著名な神社の序

るかと言えばそうではない現状でもある。しかし,かつて

列化がされたものの,管理統制という点では,神社の戸籍

は職能として分野一体の関心の対象であったのである。そ

というべき神社明細帳の作成による実態把握などがされる

こで,本稿では近代造園学において神社空間にどのような

のみに留まっていた。地域社会に広がる神社の空間も含め

関心が払われ,職能としてどのように神社と関係していた

た一元的管理を射程とした体系的な動きは,内務省神社局

のか,断片的であるが,現時点での見取り図の提供を試み

の設置以降の明治 30 年代以降から大正期まで待たねばな

る。

らない。この時期になり「国家の宗祀」に相応しい神社の

ション空間

実体化が目指されるのであるが,その背景には,日露戦争

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で疲弊した地方自治体の振興を目指した内務官僚主導の「地
方改良運動」が存在し,この動きの中で近世村を統合的再

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 先の丸山論説に詳述されるように,神社との関わりは,

編した地方自治体としての行政村を維持するための国家統

近代造園学の誕生以前からプログラムされていた。主とし

治の装置として,神社が公的秩序の中に組み込まれた。こ

て近代化に伴う土地制度の改革の中で,神社は,その空間

こにおいて,神社は内務省や府県などによる積極的な関与

的基盤を切り崩され,荒廃する傾向にあったが,その対応

を受ける存在となるのであるが,そこで課題として浮上す

の1つとして「公園」という制度が生み出された。さらに

るのが,境内の風致問題である。つまり,多くの神社が「国

神社は近代都市建造の中での都市計画施設としての公園の

家の宗祀」に相応しい空間的実体を持っていなかったこと

空間的基盤の提供にも一役買った。この一連の流れにおい

であり,同時に,都市部における工業化の影響による神社

て両者は,皆がアクセスできる空間という点,官が管理す

林の枯損が行政的課題となっていた 4)。

る空間(官有地)という二義的な意味での公共性を有して
いたこと,野外レク空間であるという点で共通性を持って
いた。神社と公園との接点は都市部に限らず,例えば日光
の二社一寺の荒廃は,国立公園法制定の機運の醸成に大き

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く寄与しているほか,上知された旧霧島神宮境内地 2)の

 造園学の誕生は,大正期における明治神宮の造営という

風致維持手法としての公園化構想が,現在の霧島錦江湾国

国家的プロジェクトの存在なしには語ることが出来ない。

立公園の源流となるなど,自然公園においてもその接点を

このプロジェクト自体については濱野論説を参照していた

3)

見出せる 。

だくとして,本稿では,明治神宮造営がきっかけとなり,

 つまり,公園は,神社に代表される近代化に一見そぐわ

造園学にもたらしたものとして,野外レク空間と祭祀空間

ない,しかし在来的価値のある空間の受け皿としての機能

を峻別するゾーニングや森林管理手法を整理した神社風致

を果たしていたと評価できる。ただし,野外レク空間とし

計画論の構築及び,内務省との接点に着目したい。特に前



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者については,全くのゼロからの神社の造営かつ,特に神
社林については,都市部立地という環境要因的制限から既
存の神社林モデルを適用できないという状況の中で,必然
的に「神社とは?」という原論的アプローチを採らざるを
得なかったという明治神宮に特有の性格が大きく影響して
いると思われる。
 この神社風致計画論の理論化を試みた人物が明治神宮造
営局に技師として携わった本郷高徳であり,同じく技手で

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あった上原敬二である。特に,明治神宮という一神社での
を超えて,帝国全土の神社に適用を試みる上では,多くの

その理論化を先駆したのは上原であると思われ,造営期間

点で非常に確からしくかつ時宜に叶ったものであった 7)。

中に全国の神社を測量・記録し,そこで得た知見を踏まえ,

 1つは,神社林は「神代ながらの森」であり,本来であ

同時平行的にその構築を試みていた造園学の一領域として

れば,「手つかずの森」として禁足的管理がなされていた

く組み込んでいった。その代表的な成果は,上原の『神社

であろうと原論的あるべき論を展開し,その結果生じるで

境内の設計』5)や本郷の『社寺の林苑』6)である。

あろう林相を自然科学的知見から求め,極相状態の「原生

 ゾーニングについてみれば,明治神宮で採用された内苑・

林」を神社林のあるべき姿として設定するというものであ

外苑のセットの採用及び,神社境内の内部をゾーニングし

り,歴史的,かつ自然科学的な確からしさを備えていた。

て聖と俗を切り分けることで,祭祀空間と野外レク空間の

加えて,そこから導かれた森林は,対応すべき課題であっ

整序を理論化した。図−1,2に示されるに,本郷と上原

た都市化にも有効であるという点である。付言するならば,

は用いる用語に違いはあるものの,社殿とその背後を核心

小野原稿,今西原稿で詳述されるように,神社林が入らず

とし,森厳・崇高な森林区域として,ここを頂点とするヒ

の森というのは当為の観念であり,実態とは異なる。しか

エラルキーが見える。この森林区域のあるべき姿は「原生

しながら,全国に広がる神社の改良を前提とした立場であ

林」として,郷土樹種の極相状態が目標とされ,それは国

れば,この点は問題にならず,むしろあるべき姿へ導くた

土の多くの地域では常緑広葉樹に占められた。そして,こ

めの改良の必要性を強調するのである。

の目標を実現するために,植生遷移を織り込んだ植栽樹種

 このように,明治神宮造営をきっかけに,造園学の一領

の選定や禁足的な森林管理方法を取るというのが,その骨

域として神社風致計画論が構築されていった。田村剛の『造

子である。この森林造成管理手法は,明治に神宮造営にお

園概論』『造園学概論』や上原敬二『造園学汎論』その他

いて,伊勢神宮のようなスギ中心の荘厳な神社林の実現と

の文献などを整合的にまとめた印象のある永見健一による

いう要請に対して,特に煙害が懸念される都市環境化にお

『理論実際造園学』8)においては,巻頭口絵にカラーで図

いて荘厳な神社林を造成するために,いわばスギ林に変わ

−3が掲載されており,これは当時の造園学における位置

る代役として生み出されたのであるが,個別の神社への解

付けをよく示している。

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森林造成管理手法を超えて,神社一般への適用を目論んで,

 また,1923 年6月に内務省で開催された地方改良講習

とし,都市化によって失われる郷土を表象する空間として

会において,本郷が『神社神苑の保護に就て』と題した講

神社を位置づけ,郷土風景を保存するための公共造園空間

演を行うなど,この神社風致計画論は,先述した内務官僚

としての神社への期待を語る 13)。郷土の森林風景の特権

主導の「地方改良運動」における神社の空間的統制や,外

化が神社風致計画論においてなされたため,郷土風景保護

地や護国神社の新設など,行政が必要とする学知であった。

論との接合が生じ,官国弊社などの国家的神社だけでなく,

同時にそれに携わる行政セクションでの技術者が求められ

府県レベルの「普通」の神社へもその射程が及んでいる様

るわけであるが,つまり,神社は公園と同じく公共造園空

子が見られる。

間の1つであったといえる。現在の都市公園行政や自然公
園行政が,それぞれ内務省都市計画課,内務省衛生局に端

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を発し,明治神宮造営を経験した造園学徒が両者において

 畔上直樹 4)は,1928 年に大分県において実施された昭

テクノクラートとして活躍したことは良く知られている。

和大礼記念事業の一環として,県内郷社以上 146 社の神社

そこで,神社風致計画論の広がりも含めて,断片的にでは

林の風致維持と,基本財産造成のための経済林経営が議決

あるが神社行政における造園学徒の活躍を見てみたい。と

されたこと,その方針を述べる県の須山林野課長の言説か

いうのも,現在の我々がぼんやりとしている,極相状態の

ら,造園学的な神社風致計画論の影響を指摘している。
「普

「原生林」を神社林のあるべき姿と置くイメージの拡散と

通各神社に最も多い杉の木は荘厳を如何にも神々しいけれ
ども天然の更新を図ることは中々困難である」14)とあり,

も無関係ではないように思われるからである。

スギを神社林として不適とする理由が興味深い。この須山
林野課長は,須山温圭と推定されるが 15),須山は 1909 年

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に東京帝国大学林学科卒の人物で,大分県における国立公
園運動にも関わっており,専門ではないものの造園学関係

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者との接点があったとみてよいだろう。また,より実務的

 まず挙げるべきは本郷高徳であろう。本郷は,「吾邦に

に携わった可能性の高い技術者として,今井庄五郎が挙げ

は神社局直接監督下にある官・国弊社の数約二百,境内の

られる 16)。今井は,1927 年に九州帝国大学林学科を小寺

規模も数百,数千町歩に亘るものさへあるに拘わらず林苑

駿吉 17)と同時期に卒業しており,小寺と同様に永見より

管理の適切を欠きたりしを,明治神宮御造営の頃から当局

造園学教育を受けた人物である。

もこれに気付き,自分はその整備,改善指導の一切を任さ

 河村忠伸 18)は京都府(昭和期)と滋賀県(1942 年)に

れ,鋭意そのことに当たりし…後年神

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院の造営課に林苑

おける神社林管理方針を記した行政文書を示し,そこに造

専務の技師あるまでに進んで,神社林苑革新の機運に達し

園学的神社風致計画論の影響を指摘している。滋賀県につ

た」と大正期以降の神社行政の隆盛を伝えており,本郷自

いては,これより以前の 1932 年から,三樹樹三内務部長

身,内地だけでなく,「朝鮮,台湾,関東州,樺太,南洋

の下で,国民精神作興の基本として県下の神社林の調査・

統治領等,外地神社造営」に携わり,「此の方面の第一人

整備が行われていた。このために,林務課技手のポストを

9)

者として」活躍した 。1941 年の台湾神宮の境内拡張計
画には,田村剛の差配により池ノ上容が従事している

10)



新設し,折下吉延の関係の下で,配属されたのが佐藤昌で
あった。調査期間中に佐藤は,郷土保護(ハイマートシュッ

 本郷が示した神 院の技師に当たるのが田坂美徳である。

ツ)に関心を覚えたとしているが,神社と郷土風景との関

明治神宮外苑の造営に造営局技手として携わったことを皮

係を見る上で,この点も興味深い 19)。なお,1934 年まで

切りに,1936 年以降は内務省神社局の技師として,全国

務めた佐藤の後任の技手は,先述した今井であった。この

の神社整備に関与し,中でも紀元 2600 年祭に際しての橿

ほか,山口県では紀元 2600 年記念として神社林の整備・

原神宮 11)や宮崎神宮の大規模拡張に関与 12)するなど,本

造成が行われているが,全国的に見れば,府県における全

郷と並ぶ内務省における指導者であった。

面的な事業展開の数は限られていた 20)。

 本郷・田坂の業績からは,国レベルでの神社造営・拡張

 しかし,これ以外の府県で神社造営・拡張事業が行われ

事業が盛況であり,それを支える職能として造園学が必要

なかったわけではなく,例えば神奈川県では 1939 年に神

とされていたことがわかる。さて,神社整備が活況づく

護国神社の創建が決定され,神奈川県都市計画課技師であっ

1920 年代以降は,同時に都市の拡大が進み,国土の風景

た小坂立夫が敷地の選定からこの任にあたっている 21)。

が大きく変貌を遂げようとする時代でもあった。特に大都

神奈川県護国神社は現在の三ッ沢公園を鎮座地とし,明治

市近郊においては,ありふれた郷土の風景が消えゆくこと

神宮に倣い献木運動が行われたが,その成果は芳しくはな

は抗えない事象でもあった。これに対して本郷は,神社林

かったようであり,神社自体も戦災によって完成を見るこ

は「郷土特有の林相を伝うるものを以て理想とせらるる」

とはなかった。他にも,神社境内そのものではないが,石



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であろうことが浮かび上がってくる。生まれたばかりの造
園学にとっては,歴史的,かつ自然科学的な確からしさを
持つ神社風致計画論を手に神社の現状改良を迫ることは,
職能の活動領域の確保にもつながる。このため,神社風致
計画論の性格は,当時の造園学の置かれた状況により味付
けされていると思われる。神社風致計画論に従い,
「原生林」
を目標と置いた場合には,その空間デザインの余地は少な
いように思われるが,しかし,当時の記述を注意深く読め
ば,これはあくまで原則論であり,本郷,上原らは原則を
超えて風致への配慮を十分にしており,この点は,今後の
神社を対象に計画・デザインする上で留意したい点である。
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神甲子郎は,都市計画愛知地方委員会技師として,明治時
天皇の聖蹟である熱田神宮神田(愛知県)と都市計画道路
の調整を行っている 22)。また,伊勢神宮を擁する宇治山
田市においては,伊勢神宮を核とした都市計画が計画され
るのであるが,その関係で 1937 年には本多静六や本郷ら
が参画する臨時神宮施設調査委員会が組織され,その中で
本多は内宮・外宮連絡道路に関する提案をしている 23)。
その植栽プラン(図−4)は,マツ・スギの現状からシイ・
カシなどを植栽して,「原始林に近き林相」に導いていく
という,明治神宮造営をきっかけとして構築された造園学
における神社風致計画論そのものである。神社林を常緑広
葉樹主体の林相とする考えは,明治神宮造営において次善
の策として創出されたはずであるが,その出自が忘却され,
もともとのモデルの出所であったはずの伊勢神宮にまで及
んでいる様が見て取れる。

 「公園」という存在は,造園・ランドスケープ分野とは
切り離せない。日本における「公園」は近代土地制度にお
いて神社の受け皿として機能しており,近代造園学誕生以
前から神社との関係性は構築されていた。この性格は現在
にも引き継がれており,特に公共性や地域らしさに加え,
制度と空間のあり方を考える上で,重要な論点となり得る。
加えて,大正−昭和初期までは,公共造園空間としての神
社造営は隆盛を極め,造園学徒の参画も確認出来たが,そ
の反面,戦後は本郷の言葉を借りれば,「国家との関係は
全く断たれ…終生の仕事と心ひそかに期待せしことの早く
も水泡となりし」として,神社は官(公)が管理するとい
う意味での公共造園空間としての範疇から外れていった。
本稿で見た神社と造園学の関係からは,極相状態の「原生
林」を神社林のあるべき姿と置くイメージの生成に,明治
神宮造営をきっかけとした造園学の関与が一定程度あった

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1) レクリエーションという語の意味を超えるが,本稿では遊観
地や盛り場も含むものとして使用する。
2)水内佑輔・古谷勝則(2013):霧島神宮境内地の国立公園指
定に至る経緯:ランドスケープ研究 76
(5)
,433-438
3)自然公園行政と神社についての関係性についても論述すべき
であるが,本稿ではこの記述を限りに留める。
4)畔上直樹(2015):戦前日本における「鎮守の森」論:明治
神宮以前・以降 近代神社をめぐる環境形成の構造転換:鹿
島出版会,67-100
5)上原敬二(1919):神社境内の設計:崇山房,239pp
6)本郷高徳(1929):社寺の林苑:雄山閣,181pp
7)唯一の問題は,郷土樹種で構成される森が果たして荘厳な森
であるのかどうかという点である。
8)永見健一(1932):理論実際 造園学:養賢堂,402pp
9)本郷高徳(2012):明治神宮史関係資料翻刻 本郷高徳『吾
が七十年』:神園(8)
,163-193
10)油井正昭(2004):池ノ上容先生の歩んだ道:池ノ上容著作
目録と自然公園論:千葉大学園芸学部風景計画学研究室,
71-75
11) 1910 年代の橿原神宮の整備には折下吉延が参画している。
12)日本公園百年史刊行会編(1978):日本公園百年史−総論・
各論−:日本公園百年史刊行会,395-396
13)本郷高徳(1931):郷土風景と神社:庭園 158,2-3
14) 大分県(1929):御大礼記念神社林苑造成計画書(千葉大学
園芸学部附属図書館小寺文庫所蔵)
15) 須山温圭(1929):大別府並久住高原と耶馬溪:國立公園 1
(9),4-7
16)今井庄五郞(1933):納池公園の沿革とその公園政策確立に
就て:造園研究 9,47-75 この納池公園も納池神社と密接な
関係のある太政官公園である。
17) 油井正昭(1997):小寺駿吉 豊かな情操に恵まれた幅広い
造園学の先覚者:ランドスケープ研究:60(3)
,207-210
18)河村忠伸(2017):近現代神道の法制的研究:引文堂,272286
19)佐藤昌(2004):百歳譜:東京農業大学出版会,194-210
20)農林省山林局(1940):社寺林の現況,584pp
21)小坂立夫・ 渡達也・布施六郎(1987):小坂立夫氏に聞
く:造園雑誌 50
(4)
,285-289
22)石神甲子郎(1940):熱田神宮神田整備:造園雑誌 7( 1),
22-30
23)本多静六(1937):神宮関係施設に対する私案(東京大学森
林風致計画学研究室所蔵)

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