金属表面における一酸化窒素の吸着状態と磁性
概要
一酸化窒素 (NO) はその最外殻軌道である2π*軌道に一つの不対電子を有している分子である。化学的観点から見ると,NOはその不対電子に起因した高い反応性を示し,NOを無害化する不均一触媒との関連から,表面におけるNOの構造や反応が盛んに研究されている。物理的観点から見ると,NOはその不対電子に起因する常磁性を示し,その物性自体にも興味が持たれる。
走査トンネル顕微鏡 (Scanning Tunneling Microscopy, STM)は金属探針と表面とのあいだに流れるトンネル電流を,探針をスキャンしながら測定することで,表面を可視化する技法である。STMを用いることで個々の原子や分子を可視化したり,一分子の局所状態密度 (LDOS) や局在スピン,振動スペクトルを計測したりできる(トンネル分光, STS)。本研究ではおもに,STMと表面振動分光法の電子エネルギー損失分光 (EELS)を用いて,(1) Cu(111)表面,(2) Au(110)-(1x2)再構成表面におけるNOの吸着状態と磁気的性質を調べた。
(1) 筆者は80 KのCu(111)表面において,水分子はNOと引力的に相互作用することで,水--NO複合体を形成することを見いだした。STMによる分子操作と,補助的に行ったAFM観察によって,水--NO複合体の最小要素は4つのNOと3つの水分子からなることを明らかにし,その内部構造を明らかにした。またEELSによる振動スペクトルから,水分子はN-O結合を弱める作用をしていることも明らかになった。これらの結果から,水--NO複合体の形成機構として,負に帯電したNOが水分子の水素原子を受け取ることによる静電相互作用(NO--+H-OH)を提唱した。この静電相互作用を増大するために,NOの2π*軌道 (反結合性軌道) に表面から電子が供与され,その結果N-O結合が弱められている。以上の結果は,気相では極めて弱い水-NO間の静電相互作用が,表面吸着系では複合体を形成するほどに強大になることを表しており,触媒反応環境下における共吸着分子の重要性を示唆している。
(2) 筆者はAu(110)-(1x2)再構成表面におけるNOの磁気的性質をSTMとSTSを用いて調査した。まずSTM観察から,NOは表面に3種類の吸着状態で存在することが明らかになった。STS (dI/dV)測定によって,オントップ種 (2種類) において,0 mVを中心とした共鳴構造を観測した。スペクトルの温度依存性から,この構造をNOの局在スピンと伝導電子間との反強磁性相互作用による近藤共鳴 (TK = 114 K)に帰属した。すなわち,オントップに吸着したNOには磁気モーメントが残存していることがわかった。一方,ブリッジ種 (1種類) は表面との相互作用が強いために磁気モーメントを失っており,近藤共鳴は観測されない。以上の結果は,相補的に行ったDFT計算とも一致をみた。加えて,オントップ種において近藤共鳴と分子振動との結合を観測し,その空間分布と非弾性散乱の傾向則を用いて,振動モードを推定した。
また,二種類のオントップ種で観測された近藤共鳴は,その形状が異なっていた (ピーク,ディップ)。理論計算の結果を考察し,その違いはNOの2π*軌道の自由度,すなわち分子周囲の環境の摂動によって,近藤共鳴を担う軌道が切り替わることに起因すると提案した。以上の結果は,同じ表面でも吸着状態によってNOのスピン状態が容易に変化しうることを実験と理論の両面から初めて提示したものである。