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書き出し

雲岡石窟における中小窟龕の研究

熊坂, 聡美 筑波大学

2020.07.22

概要

はじめに
本研究は、雲岡石窟(山西省大同市)において皇帝以外の人々の発願により制作された中小の石窟あるいは仏龕(以下、民間造像と仮称)を研究対象とする。北魏皇室によって造営された大型の石窟群に対し、雲岡石窟の民間造像は数量こそ多いものの規模が小さく、これまで十分に研究されてこなかった。本論の主要な論点は、①制作開始時期の特定、②同時期に国家主導で造営された石窟との関係の解明、③洛陽遷都(494 年)によって造像活動の担い手が民間に移行した後、実際に窟龕の制作をおこなった工人集団が複数に分かれていた可能性の検討の 3 点に集約される。それらの検討を通して、国家的石窟と民間造像とがどのように関わり合いながら雲岡石窟が形づくられたのかを明らかにし、雲岡石窟を再評価することが最終的な目的である。

第二章 雲岡石窟における民間造像の出現―曇曜五窟
第二章では雲岡石窟における民間造像制作がいつ、どのように始まり、国家的な造像活動とどのような関係を持っていたのかを明らかにすることを目指した。雲岡石窟で最初に造営された曇曜五窟(第 20、19、18、17、16 窟)では、窟内空間の大部分を石窟本尊や脇侍などの基本造像が占め、周壁には大小様々で制作時期も多様な仏龕(民間造像)が刻まれている。仏龕の中に含まれている石窟開鑿期の作例を抽出するため、各窟の当初計画に含まれていた基本造像(石窟本尊、脇侍、壁面上層の千仏など)と仏龕との間の①切り合い関係、②造像の様式および形式的特徴に注目した。結果、第一に曇曜五窟開鑿期の作例と見なすことのできる仏龕は合計 51 基あり、各窟開鑿期の仏龕は周壁荘厳の作業と並行して制作されたこと、第二に仏龕制作は西の第 20 窟で始まり、次第に東の石窟へと広がったこと、第三に供養者像を伴う仏龕の配置には当初規則性を認めることができなかったが、次第に複数の仏龕を左右対称や何らかの意図をもって配置する段階へと移行したこと、そして第 18 窟はその過渡的状況を示していることが理解された。全体を総合すると、雲岡石窟の民間造像制作は、開始当初は石窟全体の造営計画とはほぼ無関係で、個人的な造像活動であったが、次第に集団化し石窟を構成する要素として取り込まれていった。複数の仏龕を一定の規則に基づき配置するという、壁面を装飾する意識の出現は、その後第 7・8 窟などで見られるような周壁全体を同大の仏龕で覆う整然とした構成に至る前段階として位置づけることができると結論づけた。

第三章 第 5 窟と民間造像
第三章では、造像の着衣形式の漢化という大きな転換を果たした第 5・6 窟(国家主導の対窟)のうち、第 6 窟ではなく第 5 窟の形式が同時期の民間造像に受容された背景を明らかにすることを目指した。

本章前半では第 5 窟の造像制作開始年代と石窟の造成事情を、様式・形式、大規模な亀裂と造像の関係に基づき検討した。その結果、①明窓・門口の造像が制作された年代は、造像の服制の新・旧を問わず 480 年代以降であること、②開鑿初期に発生した亀裂が窟内の造像制作に対して一定の影響を与えていたこと、そして③西壁の方が東壁に先行して完成していたことの 3 点を示した。後半では第 5 窟と第 6 窟および第 11、13 窟との関係、そして同時期からその後の民間造像との関係をそれぞれ分析した。その結果、次の 3 点が明らかとなった。第一に第 5 窟では造像制作が進行するにつれ、第 11、13 窟(窟内諸龕は民間造像)と共通する要素は減じ、第 6 窟との共通点ないし影響を受けた要素は逆に増加する。第 5 窟と民間造像との間に、たとえ次第に減じるとしても接点が認められることは、第 6 窟との相違を考える上で重要である。第二に、造像様式の面でも第 5 窟像では身体表現などに先進的な特徴がより多く認められた。したがって民間造像との間により多くの接点を持ち、新しい造像様式への転換を一層進展させていることが、第 5 窟像の形式が民間造像に取り込まれることとなった要因であったと考えられる。そして第三に漢化過渡期の民間造像は第 11、13 窟内部だけでなく曇曜五窟周辺にも分布し、それらは様式・形式的特徴を同じくしており、離れた位置に刻出されていても、全体で造像の情報を深く共有していることが理解された。

第四章 洛陽遷都前後の民間造像―第 11・12・13 窟外壁窟龕
第四章では洛陽遷都前からその後にかけて、雲岡石窟の広い地区で制作された民間造像が、どのようなまとまりを持ち、どのように関連し合いながら展開したのかを明らかにすることを目指した。そのために、先行研究によって概要が明らかにされている第 11~13 窟外壁の窟龕を中心に据え、第 5・6 窟周辺の窟龕、そして第 21 窟以西の西端地区の窟龕との関係を窟・龕の構成ごとに分析した。

結果を総合すると、第一に第 11・12・13 窟外壁と第 5・6 窟周辺の窟龕との間では 500 年頃から情報の交流が活発に行なわれており、共有された情報の多さから見て、2地区の窟龕は「東部地区」として一つのグループを成すと言って良く、その中心は第 11・ 12・13 窟外壁であった。他方、第 11・12・13 窟外壁と西端地区の窟龕との間には当初隔たりがあり、共有される造形や形式が増加したのは三壁三龕窟出現以降(507 年頃)であった。ただし東部地区で出現した新しい形式の窟龕が西端諸窟で流行することはなく、西端諸窟の新しい形式が東部地区に取り込まれることの方が多かった。その傾向は東部地区で三壁一壇二龕窟の出現した時期(507 年以降 515 年以前)に強まった。つまりその頃には造像活動の中心が西端諸窟へと移行したと考えられる。

東部地区と西端諸窟の小型窟の間には情報交流が全くなかったわけではないが、それぞれに連続的な変化があり、異なる系譜関係が成立することから、東・西の地区の工人集団は基本的に相違していたと考えられる。なお、東部地区では第 12-1 龕を中心とする 500 年前後の龕に、それまでの雲岡石窟には見られなかった新しい文様が複数採用されていることから、この時期の東部地区の民間造像が他地域の造像から最新の情報を受容していたことも考えられる。また、雲岡石窟における三壁三龕窟や三壁一壇二龕窟の出現はいずれも龍門石窟よりは早期であることも理解された。

第五章 中小窟の造営思想―尊像配置の定型化
第五章では洛陽遷都以降、民間造像として仏龕だけでなく、小規模ながらも四壁を伴う石窟が造られるようになった際に、どのような意図で尊像が選択、配置されたのかを明らかにすることを目指した。そのために特に数の多い中・小の「三壁三龕窟」における尊像の配置法に注目した。

検討の結果、同じ三壁三龕窟であっても、中型窟と小型窟とでは尊像配置の規則が基本的に相違することが明らかとなった。中型窟では左・右壁の尊像の対称ないし造形的照応、そして窟ごとの独自性が強く意識されているのに対し、小型三壁三龕窟には尊像の配置法に一定の規則が存在する。小型窟では特に菩薩交脚像を左壁に配置することが三壁三龕窟以前から定着している点が重要である。対する右壁には如来倚坐像のほか、千仏や儒童布髪本生など過去仏と見なされる図像が選択的に配置されていることから、小型窟に配された三仏は、過去・現在・未来の三世仏を表したものであると考えられる。なお、三世仏表現に菩薩交脚像を取り入れることによって、過去仏から釈迦仏、そして弥勒へという系譜が明確に表現されることになった。それは釈迦から弥勒へという系譜関係を特に重んじた雲岡石窟特有の造形的伝統に基づく表現であること、そしてそのような配置法の淵源は第 6 窟中心柱四面の尊像配置や北涼塔などに求められる可能性があることを指摘した。

第六章 天蓋龕の展開からみた民間造像の工人系統
第六章では天蓋龕という特殊な仏龕形式に注目し、その造形的特徴の相違と分布状況などに基づき工人系統を明らかにすることを目指した。分類の結果、雲岡石窟の天蓋龕は最末期まで複数の形式が併存することが明らかとなった。そしてそれは保守的な性格の強いグループと、他地域からの情報を受容したグループとに分けることができる。前者は従来から定着していた尖拱龕や楣拱龕と天蓋とを組み合わせた形式であり(ⅠB・ⅡB 式)、最末期まで継続された。後者は牀帳や円蓋といった宮殿や寺院などの具体的な設えと結びついた天蓋龕のグループである(ⅡAa・ⅡAb 式)。さらに他地域の天蓋龕の状況から、牀帳形天蓋龕(ⅡAa)は洛陽周辺で認められるのに対し、円蓋形天蓋龕(ⅡAb)は、雲岡石窟における出現よりも早期から南朝領域の四川省出土造像群において定着していたことが明らかとなった。世俗の最高権力者の玉座を彷彿とさせる華やかに装飾された牀帳の造形が、仏龕装飾の一形式として定型化したことによって、漢化という仏教美術の大きな転換が仏龕という仏の居所の造形にまで及んだことが理解された。

終章 雲岡石窟と民間造像
以上の民間造像の展開から、国家的石窟に付随して現われた民間造像(第二章)が次第に勢いを増し(第三、四章)、複数の系統が生まれ、発展していく様子(第四~六章)の一端が看取された。洛陽遷都後、雲岡石窟における国家的造像活動が終了したことによって民間造像が多様化したとき、造像には明らかに装飾法を異にするグループが出現していた。それが異なる造形的規則を保持したまま、長期にわたり一定の変化ないし発達を遂げたことが観察された場合、本論ではそれを工人集団の別として認識する考えを示した。その造形的規則は主に、遷都前の国家的石窟が示した雲岡石窟の伝統をどのように継承し、他地域からの新たな情報をどのように取り込むかという点の立場の違いに基づき生まれた差異であったように思われる。最終的に雲岡石窟第三期には四系統の工人グループが併存し、影響を与え合いながら最末期まで活発な造像活動が展開されたと結論づけた。

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