温故知新 日本の家畜防疫の幕明け(4) 山脇圭吉著 日本家畜防疫史(昭和14.年文永堂書店発行)
概要
温故知新 日本の家畜防疫の幕明け(4) 山脇圭吉
著 日本家畜防疫史(昭和14.年文永堂書店発行)
著者
雑誌名
巻
号
ページ
発行年
URL
木田 克弥
北海道獣医師会雑誌
64
9
16-17
2020-09
http://id.nii.ac.jp/1588/00004664/
(
【資
)
ことについて、その経緯と清浄化方策が記述されています。
料】
明治
年
月、テイ・ワイ・マクガワンの警告を受け、イン
デロングより連絡を受けた明治政府は、急遽、牛疫侵入防止
温故知新
のための水際対策「悪性伝染病予防に関する布告」を講じま
日本の家畜防疫の幕明け⑷
山脇圭吉著 日本家畜防疫史
(昭和 年文永堂書店発行)
した。これこそが、我が国家畜防疫の起源であったことは既
にご紹介の通りです。そして、同年
月には、牛疫の理解を
深めるために、ヨーロッパの牛疫に関する報告の訳文を頒布
し、牛疫がいかなる疾病であり、人への危害について周知が
図られました。
現代字版編集
木
田
克
弥
(帯広畜産大学 家畜・植物防疫研究室)
ところが「悪性伝染病予防に関する布告」からわずか半年
後の
月には、なんと政府は畜産物輸入禁止などの水際対策
を解除し、さらに、明治
六.畜産物輸入禁止解除の布達
民部省布達第五一八号
明治四年十月五日
年
月には、家畜死体(皮や骨)
の利用の推奨を布告したのです。おそらく、この間も、大陸
では牛疫は継続していたのでしょう。ついに、明治
年夏、
去ル六月家畜伝染病予防法中海港場ニ於テ厳ニ入船ヲ
牛疫の大流行が始まったのです。著者山脇圭吉先生も述べら
改メ当分ノ内生禽獣ハ勿論新皮革等輸入ヲ禁シ候云々御
れていますが、まさに「朝令暮改」
、今日のように海外からの
布告二相成候ヘ共最早不及其儀候此旨相達候事(法令全
情報が簡単に入手できる時代とは異なり、国内では何も起き
書明治四年三六二頁)
ていない中でなんとなくの安心感から安易な規制解除に走っ
布達文の訳: 去る 月、家畜伝染病予防法中、海港
場において厳に入船を改め、当分の内、生禽獣は勿論、
てしまったのでしょうか、改めて、リスク評価の重要性に思
いを巡らされます。
新皮革など輸入を禁じ云々御布告に相成り候えども、最
しかしながら、この疫病の大災禍の経験は、現代に通じる
早、その儀、及ばざる候、この旨、相達し候事
悪性伝染病の防疫制度の確立および清浄化のための具体的な
七.家畜屍体利用に関する布告
対策技術の確立につながっていったものと思われます。
太政官布告第七六号
明治六年三月
病死禽獣ヲ食料ノ為致売買候事ハ兼テ厳禁候処天然死
或ハ通常ノ病ニテ斃死候者ハ皮剥取骨肉等田園の培養に
利用候義不苦候於各地方右弁別厚ク可致注意事但シ流行
病死ノ者ハ焼棄勿論ニ候事(法令全書明治六年七六頁)
第三章 明治初年における家畜伝染病の流
行、予防並びに獣医事衛生施設
(獣類伝染病予防規則制定に至るまで)
一.牛疫の流行と予防
布達文の訳: 病死禽獣を食料のため売買いたし候事
本邦の牛疫流行に関しては古い文献に徴(しるし)す
は、かねて厳禁候ところ、天然死あるいは通常の病にて
るものがない。第一回の流行は果たして何れの時代で
斃死候ものは、皮剥ぎ取り、骨肉など田園の培養に利用
あったか不明であるが、史実に現れた第一回の流行は明
候義、苦しからず候において、各地方右弁別厚く注意致
治
すべし事。但し、流行病死のものは、焼き棄てるは勿論
が、この伝染病が果たして牛疫なりしか否かは信憑すべ
に候事
き専門家の記録がないことと、牛疫という名称は諸種の
年勧業寮所属の牛
頭の斃死があったことである
流行牛病に濫用せられておったが故に、今日これが判断
かくして本邦における家畜伝染病の予防制圧に関する
諸制令はこの明治
年中に発せられた牛疫侵入防止に関
する交付が基礎骨子となったのである。
に苦しむといえども、明治
、
年に至って遂に猛烈な
る牛疫の大流行を来せるを見れば、恐らく真正牛疫で
あったようである。
当時の流行状況は、実に我が畜牛界に大打撃を与えた
【第三章
明治初年における家畜伝染病の流行、予防並びに
獣医事衛生施設
一、牛疫の流行と予防によせて】
これまで、明治初期において、我が国の家畜防疫がいかな
北
るものにして、その流行状況を見るに東京帝国大学名誉
教授
津野慶太郎によれば、明治
行を始めて京都、大阪の
るものであったのかをご紹介してきました。第三章では、つ
山その他
いに国内でも深刻な家畜伝染病(牛疫)の流行に見舞われた
畜牛の斃死せるもの
獣
会
誌
(
)
年
、
月頃より流
府および神奈川、兵庫、和歌
県下にわたって発生蔓延して、同年末までに
,
頭に及んだ。就中(なかんず
(
)
く:とりわけ)和歌山、千葉の
また、予防策としては明治
県が最も猖獗惨害を極
年
月
内務省乙第二〇
めたという。
この年 月大阪府病院長高橋正紀は教師「エ
号の疫牛処分仮条例を発布している。さらに、同年
ルメンス」と共に実地調査して真正牛疫と鑑定した。同
その施行規則或いは細則とも見るべき伝染牛疫予防並び
年および
殊に
年には千葉および静岡の
県に流行した。
年に房州嶺岡牧場に侵入して一時に ,
に斃死後処置を通達している。
伝染牛病死亡頭数調査届出の件
余頭を
斃したという。千葉県下における本病の発生は明治
月
大蔵省達第一六九号
年
明治六年十一月二十八日
より引き続きて流行せるもので、その終息の見当がつか
本年未曽有の伝染牛病流行候付而者各管内村々に於て
なかったために、内務省に申請して雇米人および勧業寮
右病に罹り死失候農用牛毎戸頭数取調可成速に租税寮へ
官吏が出張して之が防疫に従事したとあり。この流行に
可届出此旨相達候事
おいては病性が猛烈で、従って蔓延の迅速、且つ斃死率
布達文の訳: 本年未曽有の伝染牛病流行候に付き、
が高かったため、各農家は業をなげうってその予防に努
なんじの者各管内において右病に罹り、死失候農用牛、
めたるも、その効果が全然なかったという。和歌山県に
毎戸頭数取調べ成すべし。速やかに租税寮へ届け出でる
おいては畜牛がほとんど全滅したるために、井口某は、
べし。この旨、相達し候事
明治
年 月牛耕に代わるべき農具を案出してこの発売
方を県庁に願い出したとのことである。
同
牛疫処分仮条例
年においては、余燼(よじん:火事などの燃え残っ
内務省達乙第二〇号
ている火)なお息まず(やまず)
、諸所に流行を認めた。
明治
年
伝染病牛予防の儀、去る明治
月
日
年辛巳(かのとみ)
殊に同年 月には新宿勧業寮および寮支庁内において翌
月
年
行し既に明治
年より
もの全国
余頭に及び、農業を妨害し牧畜の進路を
月まで流行して 頭の畜牛が斃れた。続いて東京府
下の乳牛に伝染流行を来し、明治
耕牛に本病が発生して
年には下総牧羊場の
頭を斃した。当時未だ泰西(西
日太政官公布の趣も有りの候ところ、近年内地に流
,
年に至る
に牛疫に罹り斃れる
遮断するなど巨害枚挙するに遑(いとま)あらず、元来
洋)獣医学に通ずるものなく、法規がまた不備であって、
右伝染牛疫の儀は欧州諸国においてしばしば流行し、惨
全く防圧の力は及ばなかったのである。この年、本病の
害無量、結局難治の症にして、甚だしきは殆ど一国の健
ために斃れたる牛が
頭ありて
牛を蕩尽するに至り候義も往々有りの候ところ、未だ彼
年においては、
地においても治癒の方法相立せず、到底これを左右する
頭ありたるのみで、同年末漸く終息
も経費徒労に属し、専ら人手より他に伝うるの実害ある
するに至った。初発依頼本疫のために失いたる牛頭数は
に付き、速やかに患牛を撲殺し伝染の根源を断ち、健牛
明細なる統計は欠くけれども、無慮(むりょ:およそ)
を予防するを以て、古今良医の論とする所に付き、牛疫
府
斃牛
頭、撲殺せるものが
県下に流行したのである。明治
頭、撲殺
万頭を下らなかったと言われている。当時の牛
代価平均
頭の
の徴候有りの節は、断然牛主共において撲殺するは当然
円と見積もるも国家の財産を失うこと大約
の事に候えども、一時姑息の情よりして因循(いんじゅ
(たいやく:おおよそ)
余万円、これに付帯せる予
ん:しきたりにとらわれて改めようとしないこと)時機
防消毒の費用より直接に農耕運搬の業務に与えたる損害
を失い、終に疫毒蔓延候えては不容易儀につき、特別の
を計算すれば、果たして幾何(いくばく)の巨額に上っ
議を以て賠償撲殺法取設條(とりもうけすじ)別紙疫
た事であろうか。況や(いわんや)当時は汽車その他交
牛処分仮条例に照準以来、各府県において精密その徴候
通の便、今日のごとくに文明の利器なき時代において、
を探偵し牛疫の疑いあらば牛価を其の主へ賞与し、速や
尚且つ、かくのごとき惨害を受けたることは明治
年イ
かにこれを撲殺し、疫毒の源根を滅却候様取り計らうべ
ンデロングの警告(日本の家畜残らず死するもはかり難
し。尤も照会のため牛病新書並びに牛容体書下げ渡し候
きとあり)が過言でなく実証されたわけである。
すじ、篤と照準夫々処分方厚く注意。なお、管内人民へ
以上、未曽有の大流行に際して政府は疫牛統計調査の
ため明治
も告諭致すべし。この旨相達し候事(法令全書)
年 月左記の通り大蔵省第一六九号達を発し
【次号に続く】
ている。 ...