A型インフルエンザウイルスが異なる宿主に馴化する仕組みの研究
概要
審
査 の 結 果 の 要 旨
氏
名
神木 春彦
A 型インフルエンザウイルスは水禽類を自然宿主とするが、様々な動物に馴化し定着して
いる。動物のインフルエンザウイルスは突然変異や遺伝子交雑を経て、ヒトでの効率的な
増殖能と伝播能を獲得することで新たなパンデミックをひき起こす潜在性をもつ。パンデ
ミックを発生させないためには、そういった変異ウイルスを事前に検出するサーベイラン
ス体制を強化する必要がある。したがって、ヒトへの馴化に重要なウイルス変異に関する
知見の蓄積が必須である。本研究では、パンデミック対策に貢献しうるウイルス変異に関
する基礎的な知見の獲得を目的とする。
第一章第一節では、H9N2 鳥ウイルスの哺乳類馴化に必要な遺伝子変異を同定した。世
界中の家禽に広がっている H9N2 鳥ウイルスの一部は、ヒト型レセプターを認識し、ヒト
に散発的に感染する。マウス馴化株を作製したところ PB1-K577E 変異を見つけた。人工的
に構築した PB1-K577E 変異体は、マウスの鼻甲介における増殖能と低温環境下での RNA
ポリメラーゼ活性が上がっており、哺乳類馴化の新しい指標になる。第二節では、H3N2
ウイルスがイヌからネコへ種を超えて感染するのに必要な遺伝子変異を探索した。海外に
定着する H3N2 イヌウイルスは稀にネコに感染する。伴侶動物でのウイルス流行はヒトへ
の感染機会を高めパンデミックの契機になりうる。H3N2 イヌウイルスのネコ細胞馴化株
に見られた HA1-K299R、HA2-T107I、NA-L35R、M2-W41C 変異はネコ細胞での増殖性
を上げた。HA の変異はウイルスの熱安定性や膜融合の pH 閾値を上げることもわかり、馴
化に重要であると考えられた。
第二章では、A 型ウイルスの宿主馴化についてレセプターの視点から解析した。鳥、ヒト
ウイルスの HA はそれぞれ鳥型(Sia-α2,3-Gal)
、ヒト型(Sia-α2,6-Gal)糖鎖をレセプタ
ーとして使う。ヒト型レセプターへの結合性はヒトへの感染性や伝播能を獲得するとされ
る。シアル酸糖鎖との物理的な結合性を検出する固相糖鎖結合試験ではウイルス感染能と
の相関性は評価できない。そこで、鳥型レセプターノックアウト(KO)細胞(ヒト型細胞)
、
ヒト型レセプターKO 細胞(鳥型細胞)
、両レセプターKO 細胞(DKO 細胞)
、全てのシア
ル酸糖鎖を KO した細胞(SLC35A1KO 細胞)を作製し、ウイルスの増殖性を糖鎖結合試
験の結果と比較した。鳥ウイルス株は鳥型糖鎖に特異的に結合し鳥型細胞でよく増殖した。
ヒト季節性 H3N2 ウイルスは、鳥型、ヒト型の両糖鎖に弱く結合したがヒト型細胞でのみ
よく増殖した。2009 パンデミックウイルスや季節性 H1N1pdm は、ヒト型糖鎖に特異的に
結合したが鳥型細胞でもよく増殖した。糖鎖結合試験ではウイルス感染能を評価できない
こと、今回の KO 細胞を用いることで感染能を指標にレセプター指向性を正確に評価でき
ることがわかった。
第三章第一節では、第二章のヒト型細胞に鳥ウイルス HA をもつウイルス様粒子を馴化
させる安全な手法により、ヒト型レセプターへの結合性を上げる変異を同定した。H4 およ
び H6 鳥ウイルスをヒト型細胞で継代すると馴化株が得られた。H4 ウイルスでは
HA-Q226L/R、H6 ウイルスでは HA-Q226L と D187N、E190V 変異によりヒト型細胞で
の増殖性が上がった。いずれも鳥型細胞での高い増殖性が維持されていた。したがって、
ヒト型レセプターへの結合性を上げる変異を探索できる新しい手法が確立された。また、
糖鎖結合試験では検出されないヒト型レセプターを介して感染するウイルスが検出できる
ようになった。第二節では、第二章のシアル酸糖鎖をもたない SLC35A1KO 細胞でウイル
スが増殖することに注目した。レセプターはシアル酸糖鎖であるという理解に反し、非シ
アル酸レセプターの存在を示唆している。SLC35A1KO 細胞で馴化株を作出したところ、
HA1-S145I、HA1-E190D、HA2-T41S 変異が見つかった。硫酸化ガラクトースをもたない
SLC35A2KO 細胞においてもその増殖性は維持されていた。シアル酸糖鎖を介さず効率的
に細胞へ感染する HA の遺伝子変異が明らかになった。
本研究において、動物由来のインフルエンザウイルスが異なる哺乳類宿主に馴化する際
に生じる新しい遺伝子変異を複数同定した。また、樹立したシアル酸糖鎖 KO 細胞でウイ
ルスの増殖性を調べることにより、ウイルスのレセプター指向性を簡便に正確に評価する
仕組みを開発した。樹立したヒト型細胞は、ヒト型レセプターを介して感染し得る動物ウ
イルスのスクリーニングに利用できる。これらの知見は、今後のウイルスサーベイランス
の体制強化に貢献する。加えて、インフルエンザウイルスの未知レセプターの存在を初め
て捕捉した。パンデミックウイルス発生機構の解明につながるウイルスの細胞侵入機構の
詳細な解析や新たな創薬への展開が期待される。総じて、本研究は、インフルエンザパン
デミック対策に多大に貢献し得るウイルス学的基礎知見を提供した。これらの研究成果は、
学術上応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医
学)の学位論文として価値あるものと認めた。