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二重の「隠れん坊ごっこ」――レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき人よ』論

大野 真 東京薬科大学

2022.03.31

概要

1.隠れん坊ごっこの2つの物語
 私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とした最初の長編小説である『大いなる眠り』(1939年)は、隠れん坊ごっこ(hide-and-seek)の物語のパターンを確立した。ハードボイルド探偵小説での「隠れん坊ごっこ」とは、行方不明になった人物を探し求める物語のパターンである。この長編小説を通じて、私立探偵マーロウは、ラスティ・リーガンという行方不明の人物を探し求める。この小説での隠れん坊ごっこの結末は死である。マーロウは、ラスティ・リーガンが義理の妹であるカーメン・スターンウッドによって既に殺されていたこと、そして、彼の死体が油田の試掘抗の中に隠されていたことを発見する。『大いなる眠り(The Big Sleep)』という表題は死を意味するのである。
 マーロウを語り手とした第2の長編小説である『さらば愛しき人よ(Farewell, My Lovely)』(1940年)は、『大いなる眠り』の隠れん坊ごっこのパターンを前進させている。それは2つの平行した隠れん坊の物語を含んでいる。第1の物語は、以前の恋人のヴェルマ・ヴァレントを探し求める大男マロイの物語である。第2の物語は、最初の数章で黒人を殺したのちに逃亡したマロイを探し求める私立探偵マーロウの物語である。
 これら2つの隠れん坊ごっこの物語はお互いに関連している。第1の物語において探す側の人物であるマロイは、第2の物語において探される側の人物である。この論考では、『さらば愛しき人よ』の中の隠れん坊ごっこの物語における、こうした2重構造を検討してみたい。

2.第1の隠れん坊ごっこ――マロイはヴェルマを探す。
 『さらば愛しき人よ』の冒頭の章において、マーロウは中央通りの街区の一つにおいて、初めてマロイに出会う。主として黒人が多いが、「すべてが黒人になりきっていない街区」である(7)。その場所で、マロイはフロリアンの店と呼ばれる食事と博打を商う店の窓を見上げていたのだ。「彼は大男であったが、身長は6フィート5インチを超えてはおらず、横幅はビールを運送するトラックほどはなかった」(7)。この描写では、逆説的な表現を用いて、マロイの図抜けた大男ぶりを強調している。
 マロイはこの店で以前に働いていた元恋人のヴェルマを探すためにやってきたのだ。「『俺はヴェルマに8年間会っていないんだ』と彼は深く沈んだ声で言った。『さよならを言ってから8年間だ。手紙をくれなくなって6年間たつ。でも何か理由があるんだろう。あいつはここで働いていたんだ。可愛いやつだったよ。さあ、一緒に店に上がろうじゃないか』」(9)。
 酒を飲みながら、マロイはマーロウに自分の過去の出来事を語り、自己紹介する。「〔この店には〕以前には小さなステージとバンド、それに男の楽しみ向けの小粋な小部屋がいろいろとあった。ヴェルマは歌手だったんだ。赤毛の女で、レースの下着のように可愛らしかったぜ。俺たちは結婚するはずだったのに、連中は俺をとっ捕まえたんだ」(14)。そうして8年間、マロイは刑務所にいたのである。「俺の名前はマロイ。体がでかいので、大鹿マロイと呼ばれている。グレートベンド(注:カンザス州の市)の銀行を狙ったんだ。4万ドルの仕事を一人でやってのけた。すげえと思わないか?」(14)それからマロイは店のボスであるモンゴメリーのオフィスに向かう。マロイはモンゴメリーにヴェルマのことを尋ねるが、モンゴメリーは回答を拒み、代わりにマロイを銃で脅す。そこでマロイは怪力をふるってモンゴメリーを殺し、逃走してしまう。
 のちに殺人現場を見たマーロウは、以下のように死体を描写している。「板を打ち付けて部分的に閉鎖した窓際に、傷のついた小さな机があった。人間の胴体が椅子に座って直立していた。椅子には男のうなじにまで達する高い背もたれがあった。男の頭は椅子の高い背もたれ越しに折り曲げられてしまい、鼻先が板を打ち付けた窓の方を向いていた。まさに、ハンカチや蝶番のように折り曲げられていたのだ」(17)。
 さらに、マロイはヴェルマを探し求める中で、別の殺人も犯してしまう。彼はジェシー・フロリアンという女性を怪力を持つ「両手のみで」(183)殺害するのだ。夫人がヴェルマの居場所を知っているかもしれないと思い、聞き出そうとして力を込めてしまったのである。
こうして、ヴェルマを探し求める過程で、マロイは2つの殺人を犯してしまうのだ。
 第39章において、マロイはついにヴェルマに会う。ヴェルマは名前を変え、さらには髪の色も赤から金色に変えていた。今では彼女は金持ちの妻であるグレイル夫人となっていたのだ。「どん底生活から出発した少女が億万長者の妻になった」というわけである(243)。ヴェルマは自らの過去を隠そうとし、そのためリンゼイ・マリオットという男を殺しさえしていた。彼が過去の秘密をマロイやマーロウに話してしまうのではないかと恐れたためである。
しかし、マロイとヴェルマの再会は悲劇に終わるのだ。「『懐かしい声だぜ』と彼は言った。『その声を8年間聞き続けた――思い出せる限り聞き続けたんだ。でも、お前の髪は赤い方が良かったな。やあ、お前。久しぶりだな。』彼女は拳銃を向けた。『あたしに近づくんじゃないよ、こん畜生』と彼女は言った。彼はぴたりと止まって、自分の銃を脇に落とした。彼はまだ彼女から2~3フィート離れた所にいた。息があえいでいた。『今までは思ってもみなかった』と彼は静かに言った。『突然わかったんだ。お前が俺を警察に売ったんだな。可愛いヴェルマ、お前が。』私は枕を投げたが、間に合わなかった。彼女は腹を5回撃った。弾丸を打ち込む音は小さく、指を手袋にはめる程度の音だった」(244-45)。そして、撃たれたマロイは死んでしまうのである。
 ヴェルマが姿をくらまし、マロイが探す。そうして隠れん坊ごっこが始まった。この隠れん坊ごっこの結末は死であった。ヴェルマは探す側であるマロイを撃ち殺したのだ。マロイは無垢な気持ちでヴェルマを愛した。しかし、彼にとって、恋人についての真実(自分に対する裏切り)を知ることは死を意味したのである。
 ヴェルマがグレイル夫人になったとき、彼女は過去を隠して髪の毛の色を赤から金髪に変えた。グレイル夫人は美しい金持ちの女性だが、彼女の美は人工的なものだったのだ。
 マーロウが初めてグレイル夫人に会ったとき、豪邸で暮らす彼女の外見(特に身体)を以下のように描写している。「3番目の人物はブロンドの女だった。彼女は外出用に淡い緑がかった青色の服装をしていた。私は彼女の洋服にあまり注意を払わなかった。仕立て屋が彼女のために特別にあつらえたもので、腕利きの仕立て屋に注文したのだろう。服装の効果によって彼女は非常に若く見え、群青色の眼を鮮やかに引き立てていた。髪は古い絵画にあるような金色で、過度にならず丁度よく整えられていた。彼女の体はそれ以上手の加えようのないほど見事な曲線美を持っていた。洋服はいくぶん質素だが、のどもとにはダイヤモンドの連なる留め金があった。両手は小さくはなかったが、形が良く、爪はよくある目を引く色彩で――赤紫色に近かった。彼女は私に笑顔をして見せた。
 たやすく笑顔を作れる様子だったが、眼は静かなまなざしで、あたかもゆっくりと注意深く考えているかのようだった。そして口は官能的だった」(109-10、傍点筆者)。
 マーロウはグレイル夫人と話している間に、彼女の肉体的魅力にさらに注目する。彼女の両肩や話しぶりに笑い方、それに「首の美しい曲線」が彼を魅了するのだ(113-15)。それから彼らは一緒に酒を飲む。マーロウは右手で彼女の左手を握る。「その手はなめらかで柔らかくて暖かく、心地良かった。その手は私の手を握りしめた。手の筋肉は力強かった。彼女はしっかりとした体つきをした女性で、紙でできた造花などではなかったのだ」(118)。
そして、グレイル夫人はマーロウにキスして欲しいと頼む。「彼女は私の膝越しに柔らかにもたれかかり、私は身をかがめて彼女の顔を眺め回し始めた。彼女はまつ毛を蝶々の羽のように動かして、私の頬を撫でまわした。私が顔を近づけると、彼女の口は半開きになり、燃えるように熱く、歯の間から舌が素早い蛇のように突き出された」(119、傍点筆者)。まさにその時、ドアが開いて、夫であるグレイル氏が部屋に入ってくる。魅惑の魔法は解け、マーロウは夫人を押しのけて立ち上がる。マーロウはグレイル夫人によって誘惑されて、彼女の肉体的魅力に屈してしまいそうになる。しかし、彼は彼女の中に邪まなものがあることを心得ている。彼は彼女の舌を「素早い蛇(a darting snake)」に喩えるのだ。マーロウはまた、邪な女性を対処する方法も心得ている。グレイル夫人と話している間に、彼はしばしば「辛辣なセリフ(wisecrack)」を用いて返答する。マーロウは人生における闇の出来事について多くの経験を積んでおり、こうした悪の世界の中で生きていく術も心得ているのだ。
 他方、マロイは以前の恋人であるヴェルマを無垢な気持ちで愛している。彼はヴェルマの悪の側面を認識しておらず、ヴェルマこそが金のために彼を警察に引き渡した人物であることを分かっていなかったのだ。マロイが真実を悟ったときには、ヴェルマによって殺されてしまう。あるいは、むしろ、ヴェルマの別の姿であるグレイル夫人によって殺されたという方が適切かもしれない。グレイル夫人はマロイの言うところの「可愛いヴェルマ(Little Velma)」(244)に隠された悪の側面を表すのだ。
 無垢な人物は、真実を知ったときには死なねばならない。無垢は真実によって殺されるのである。

3.第2の隠れん坊ごっこ――マーロウはマロイを探す。
 第2の隠れん坊ごっこは、マーロウがマロイを探す物語である。この小説の冒頭の数章で、マーロウはフロリアンの店でマロイと出会い、そしてマロイは殺人を犯した後に現場から逃亡する。それが第2の隠れん坊ごっこの始まりである。
 この第2の隠れん坊ごっこでは、探し手は私立探偵かつ語り手であるマーロウだ。探し手が語り手でもあるために、読者もまた、隠れん坊ごっこに参加することになる。語り手が知っていくことは、読者が知っていくことに等しいのである。
 この隠れん坊ごっこにおいては、依頼人は重要ではない。一応、マーロウは警察に協力する形でマロイを探すのであるが、それはあくまで形式的なものである。マーロウは知らずにはいられない気持ちから、またはマロイに対して抱く好意による友情から、マロイを探そうとする。あるいは、むしろ、マーロウがマロイを探すのは、まさに彼が語り手であり、マロイという無垢な心を持つ魅力的な大男についての物語を語らねばならないからであるかもしれない。
 第2の隠れん坊ごっこの物語は直線的には進まない。マーロウはヴェルマを手掛かりにしてマロイを探すが、その探索は、一見してマロイとは関係の無さそうな様々な逸脱によって妨げられる。
 マーロウがジェシー・フロリアンにヴェルマについて質問した後、彼は第7章でリンゼイ・マリオットという名の男からの電話を受ける。マリオットは高価なネックレスを盗んだ者たちに金を渡さねばならず、マーロウに同行してくれるように依頼したのだ。しかし同行したマーロウは殴打されて意識を失ってしまい、意識を取り戻したときには、マリオットが殺されていることを発見する。
 マリオットが殺された後に、マーロウは盗まれたネックレスの持ち主であるグレイル夫人に会う。マーロウはまた、金持ちの女性を顧客としている「心霊術師(psychic consultant)」(90)であるジュールズ・アムサーという男に会う。マリオットが残したマリファナの煙草の中には、アムサーの名刺が巻かれて隠されていたのだ。こうしてマーロウのマロイに対する探索は、盗まれたネックレスのエピソードによって中断される。そしてマーロウは富裕階級の暗黒面について深く探究していくのである。こうして物語は新しい局面に入り、マロイの存在は背景へと後退していく。けれども、実はグレイル夫人はヴェルマであったことが結局分かり、一見マロイと無関係のように思われた、盗まれたネックレスのエピソードも、結局のところ、マロイを探す探究の中に含まれていくのである。
 第2の隠れん坊物語においては、探し手はマーロウ、つまりこの長編小説の語り手である。彼の語りはしばしば暴力によって中断される。
 例えば、第9章において、彼は盗まれたネックレスの件でマリオットと共にプリシマ峡谷に行き、そこで後頭部を何者かに殴打されて意識を失う。「誰がやったにせよ、私の後頭部を巧みに素早く殴りつけた。後になって、ブラックジャックの唸る音を耳にしたかもしれないと思った。おそらく、いつだってこう思うものなのだろう――後になってだが」(57)。こうして第9章は終わる。
 第10章は、それまで気を失っていたマーロウが意識を取り戻し始め、自分に語りかけている奇妙な声を描写する場面から始まる。「『4分間だ』と声が言った。『いや、5分か、ひよっとしたら6分か。連中は素早く静かに立ち去ったに違いない。あいつは叫び声も上げなかった。』私は目を開けて冷たく光る一つの星をぼんやりと見つめた。私は仰向けになっていた。気分が悪かった」(57)。
 そして奇妙な声はマーロウ自身の声であったことが分かる。「それは私の声だった。私は自分自身に話していて、それは自分自身から出た声だったのだ。私はぼんやりとした意識の中で何が起こったかを推測しようとしていたのだ。『黙っていろ、こんちくしょう』と私は言い、自分自身に語りかけるのをやめた」(58)。マーロウの自我が、意識での語りと潜在意識での声に分裂している点が注目される。
 それからマーロウは腕時計を見て、殴られて意識を失ってから、20分が経過していたことを知る。
 「腕時計は午後10時56分を示していた。つまり、私は20分間気を失っていたのだ。20分間の眠り。ちょっとした心地良いうたた寝だ。その間に私は悪党どもを逃して8000ドルを失ったのだ。まあ、起こりうることだろう。20分もあれば戦艦を沈めることもできるし、3つか4つの飛行機を撃ち落としたり、2回の死刑執行を行うこともできる。死ぬこともでき、結婚したり、解雇されて新しい職を見つけたり、歯を抜いたり、扁桃腺を取ることもできる。20分もあれば朝に目を覚ますこともできる。ナイトクラブで1杯の水をもらうことだって――もしかしたら――できるかもしれないのだ」(59)。
この20分間の眠りの間に、重要な出来事が起こっていた。マリオットが殺されたのだ。マーロウが殴られて気を失ったとき、語りは暴力的な力によって突然に中断される。そして語り手が意識を失っている間に何か重要なこと(殺人その他)が起こり、彼が目を覚ました時には新しい状況に直面する、というパターンの一例である。
 別の例を見てみよう。第24章の終わりで、車に乗ったマーロウは後部座席に隠れていた男に殴打されて意識を失う。「後部座席の男は目にも止まらないほどの閃光のような素早い動きをした。真っ暗な闇夜よりもさらに、さらに深い、よどんだ水のような闇が私の足もとに広がっていった。私はその闇の中に潜り込んだ。底知れない闇だった」(144)。
 それに続いて第25章は、目覚めたマーロウがいる部屋の中の煙と火事についての印象的な描写から始まる。「部屋は煙で一杯だった。煙はいくつもの細い線をなして真直ぐに空中に立ち昇り、小さく透明なビーズの飾り玉のついたカーテンが上下垂直にかかったようになっていた。突き当りの壁の2つの窓は開いているようだったが、煙は動かなかった。以前にこの部屋を見たことはなかった。窓には桟がかかっていた。私は気だるく、何も考えられなかった。一年間ぐらいは眠っていたような気分だった。けれども煙は煩わしかった。仰向けになって煙のことを考えた。ひとしきり経った後に、肺にこたえる程に深く息を吸った。私は叫んだ。『火事だ!』そう叫ぶと笑ってしまった。それのどこが可笑しいのか分からなかったが、笑い始めた。私はベッドに仰向けになって笑った。笑い声は気に食わなかった。いかれた人間の笑いだった」(144-45)。
 読者は、語り手が無意識でいる間に果たして何が起きたのかといぶかることだろう。実は、煙と火事の場面は薬物による幻覚だったのだ。語り手のマーロウは、自分がソンダボーグ医師の医院内で薬物を投与されていたことに気づく。「薬物だ。おとなしくさせるために、私はたっぷりと薬物を注射されていたのだ。ひよっとしたら、しゃべらせるためにスコポラミンも注射されていたかもしれない。時間当たりでは多すぎる薬物だ。そのために奇怪な発作を起こしていたのだ」(148)。
 マーロウは語り手である。周囲の事物を知覚して記述するのはまさに彼なのだ。彼の眼を通して、読者は小説の世界を見るのである。しかし、彼の語りはしばしば暴力によって中断される。彼の知覚は歪められてしまうことが可能である。彼は薬物を投与されて幻覚を見てしまう。この場合、薬物は一種の暴力であり、詳しくは知覚に対する暴力である。薬物の悪用は精神をかき乱す暴力を引き起こすのである注1。
 さて、このように、マーロウは殴打されて意識を失うこともしばしばあるが、彼は決して死なずに常に再び立ち上がって隠れん坊ゲームを再開し、隠されたものを探し続ける。彼の語りは暴力によって中断されるけれども、物語を語ることを決してあきらめることはない。マーロウは不屈の語り手なのである。女友達のアン・リオーダンはマーロウの、こうした不屈さを絶賛する。「あなたは本当に素敵だわ。本当に勇敢で、決然としていて、ほんのわずかな報酬のためにも働くのね。相手が寄ってたかって頭を殴打したり首を絞めたり顎を殴ったり、モルヒネ漬けにしようとも、真直ぐに突き進んでタックルやパスを突き破り、ついには相手を全員参らせてしまうのね。どうしてそんなに素晴らしいの?」(250)
 アン・リオーダンは感じの良い女性である。「彼女は感じの良い笑顔をしていた。十分に睡眠をとったような外見だった。感じの良い顔で、好感を持たざるを得ないような顔だった」(79)。彼女の父親は警察署長だったが、ギャング団の仲間である市長に従わずに左遷されてしまい、結局辞職して後に亡くなったのだ(81)。おそらく彼女は亡くなった気骨ある父親のイメージをマーロウに投影していたのかもしれない。マーロウのことを理解し、彼の不屈の精神を尊敬するのは、まさに彼女なのだ注2。

4.マーロウは自分の分身に出会い、最後に別れを告げる。
 今まで見てきたように『、さらば愛しき人よ』は2重構造の隠れん坊ごっこの物語を持つ。つまり、第1の物語では、マロイがヴェルマを探し、第2の物語では、マーロウがマロイを探すのである。マロイもマーロウも「探す者」としての役割を持ち、同じ役割を持つ故に、マロイはマーロウの「分身(double)」として見なされうる。マロイは無垢な恋人であり、ハードボイルド的な私立探偵であるマーロウは世の中のことをよく知っているという違いはあるものの、両者ともに、隠れん坊ごっこにおける探索者であるという点において相似しているのである。
 『さらば愛しき人よ』で、マーロウは物語の始まりにおいて自らの分身であるマロイに出会う。マーロウは自分の分身に引き付けられるが、最終的には、その分身に対して別れを告げねばならない。分身との出会いと別れというパターンは、後期の長編小説『ロング・グッドバイ(The Long Goodbye)』においても繰り返される。『ロング・グッドバイ』において、マーロウは自らの分身ともいえるテリー・レノックスと出会うが、やはり最後にはレノックスに対して長い別れを告げねばならなくなるのだ注3。
 『さらば愛しき人よ』と『ロング・グッドバイ』の両方ともに、友情の物語を語っている。しかし、その友情は喪失に終わるのである。どちらの小説でも、マーロウは自らの分身に対して別れを告げねばならない。マロイは死ぬのであるし、レノックスは別人になりすましてメキシコへと去ってしまうのだ。彼らとの友情の記憶は、相手が失われることによって、ますます鮮烈なものになるのである。
 マーロウを語り手とした長編第1作の『大いなる眠り』における隠れん坊ごっこのパターンを踏襲しつつ、それと同時に、長編第2作の『さらば愛しき人よ』は新しい要素を導入した。すなわち、マーロウが自らの分身と出会い、最終的にはその分身に別れを告げるという要素である注4。この長編小説でマロイが語り手のマーロウの前に実際に姿を現すのは3回のみである。つまり、冒頭の出会いの場面と、中間での間奏曲的な場面(第26章で、マロイがソンダボーグ医師の医院にかくまわれている姿をマーロウが偶然に見かける場面)と、最後の場面(マロイが死ぬ場面)に過ぎない。けれども、かつての恋人のヴェルマを無垢な心で追い求める大男マロイのイメージは、この作品全体に統一感を与え、読者に忘れがたい印象を残すのである注5。

【注】
1. 暴力の極限的状況が戦争であろう。サラ・トロットは、『ノワールとしての戦争:アメリカ文学における復員軍人としてのレイモンド・チャンドラーとハードボイルド探偵』において、チャンドラーの第1次世界大戦での従軍記録とトラウマ的な体験を詳細に再考証している(第2章)。そのうえで、戦後にチャンドラーが創作において生み出した私立探偵マーロウを、戦争体験での心の傷を負った「復員軍人(veteran)」として再解釈している。「フィリップ・マーロウは、ハードボイルド的な主人公ではなくて、『失われた』世代に属する、戦争からの復員軍人に他ならない。彼は社会的認知を求めると同時に、戦後のアメリカ社会の無秩序を受け入れられない存在なのだ」(Trott85)。トロットは、マーロウの飲酒癖そのほかの性癖を、戦場を体験した復員軍人がかかるPTSD(post-traumatic stress disorder:心的外傷後ストレス障害)の指標として解釈している(Trott 138)。

2. マーロウは、彼女は自分にとっての恋愛の対象(my type)ではないと友人の警官に言う。「彼女は感じの良い女の子だ。けれども僕のタイプではないね。…僕の好みは、粋で華やかで、情にほだされず、罪深い質の女だ」(171)。マーロウは、アン・リオーダンの健全さを好ましく思うものの、犯罪という罪悪の世界に関わる自分との間の距離を感じているのである。だが、この時点では恋愛の対象ではないにせよ、異性の良き友人としての友情を育むことは可能であり、マーロウと女性との交流において、新たな種類の関係を開く可能性を持った女性であるといえる。なお、トロットは、アン・リオーダンを「強くて尊敬すべき女性」として評価し(Trott 99)、マーロウとアン・リオーダンとの友情や、『ロング・グッドバイ』のリンダ・ローリングとの交流において、マーロウが「女性に対する思いやりや純粋な情愛」を示していると解釈している(Trott 98)。

3. 内田樹は村上春樹の長編『羊をめぐる冒険』とチャンドラーの『ロング・グッドバイ』とを比較し、両者がともに「分身」を主題にした共通の構造を持っていることを指摘している(内田45-46)。どちらの小説においても、主人公が「もう一人の自分」ともいうべき分身と出会い、離別することを中心に物語が構成されているのだ。なお、村上春樹はチャンドラーから深い影響を受けており、チャンドラーの長編の翻訳も行っている。

4. ケン・フラーは、『レイモンド・チャンドラー――仮面の背後の人間』において、チャンドラーの文学的な野心と大衆小説的な探偵小説の執筆との間の矛盾や葛藤を論じている。チャンドラーの長編小説の中で芸術性が高いものとしてフラーが評価するのは、『大いなる眠り』・『さらば愛しき人よ』・『ロング・グッドバイ』の3作であり、とくに『ロング・グッドバイ』によって、「探偵小説が芸術のレベルにまで高められうることを文句なく示した」と評している(Fuller44,129)。今回の論考において扱ったように、『さらば愛しき人よ』と『ロング・グッドバイ』が分身との出会いと別れという共通の構造を持っていることを考え合わせると、分身との離別は文学的な価値の高い主題であるといえるだろう。なお、探偵小説においては、「一人二役」のトリックがしばしば用いられる。そして、主人公とその分身は、精神的な意味での「一人二役」として解釈できる。チャンドラーは、分身との出会いと別れを描くことによって、大衆小説的な探偵小説に芸術性を与えるための鍵を発見したのではないだろうか。

5. なお、マロイは無垢な恋心を持つ男ではあるが、同時に、銀行強盗を行い、後には殺人まで犯してしまった犯罪者であることに注意すべきであろう。つまり、犯罪という悪の中に隠れたイノセンス(無垢さ)にマーロウは惹きつけられるのである。さらに、『ロング・グッドバイ』におけるテリー・レノックスも、魅力的な男ではあるが、同時に、上流階級の退廃した生活にそまった自堕落な酔っ払いでもある。マロイやテリー・レノックスのような分身たちは、善と悪との分かち難い二面性を表す存在であり、そうした二面性に対してマーロウは魅力を感じるのである。

参考文献

Chandler, Raymond. Farewell, My Lovely. 1940. New York: Penguin, 1984.

Fuller, Ken. Raymond Chandler: The Man Behind the Mask. Printed in Japan, 2020.

Trott, Sarah. War Noir: Raymond Chandler and the Hard-Boiled Detective as Veteran in American Fiction. Jackson: UP of Mississippi, 2016.

内田樹『街場の文体論』ミシマ社、2012年。

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