ベンゼントリイミドラジカルイオンの磁化緩和現象及び電荷移動錯体に関する研究
概要
博⼠論⽂
ベンゼントリイミドラジカルイオンの
磁化緩和現象及び電荷移動錯体に関する研究
Magnetic relaxation phenomena and solid-state
electronic properties of Benzentriimide radical ion
⼩⼭ 翔平
令和 4 年
論⽂⽬次
第⼀章
5
1.1. 研究背景
6
1.2. 本研究で⽤いた測定機器および測定法
7
第⼆章
10
2.1. 緒⾔
11
2.2.量⼦ビットとしての分⼦性スピン
12
2.2.1 量⼦ビット
12
2.2.2 ブロッホ球
14
2.2.3 DiVincenzo による量⼦ビットのための条件
15
2.3. 電⼦スピンにおける緩和過程
18
2.3.1 位相緩和(T2 緩和)
18
2.3.2 スピン−格⼦緩和(T1 緩和)
18
2.3.3 スピン−格⼦緩和の緩和過程
20
2.3.4 位相緩和時間(T2), スピン−格⼦緩和時間(T1)の測定⼿法:パルス ESR 測定 22
2.3.5 位相緩和時間(T2), スピン−格⼦緩和時間(T1)の測定⼿法:交流磁化率測定
25
2.4. 分⼦磁性体における先⾏研究例
27
2.4.1 ⾦属クラスターを⽤いた分⼦性量⼦ビットの例
27
2.4.2 V4+錯体分⼦を⽤いた分⼦性量⼦ビットの例
29
2.4.3 バナジル錯体の配位環境に由来する緩和現象の違い
30
2.4.4 銅錯体とバナジル錯体の緩和現象の違い
32
2.4.5 分⼦性量⼦ bit としての有機ラジカル
33
2.5. ベンゼントリイミドと本章における研究⽬的
35
2.6. ⽬的化合物の合成
37
2.7. ⽬的化合物の結晶構造
40
2.7.1 BTI-xy・Toluene の結晶構造
41
2.7.2 CoCp2BTI-xy の結晶構造
43
2.7.3 CoCp*2BTI-xy の結晶構造
45
2.8. BTI-xy 電荷移動錯体の分光測定
47
2.9. BTI-xy 電荷移動錯体の磁気物性
49
2.9.1 電⼦スピン共鳴測定
49
2.9.2 直流磁化率測定
52
2.9.3. CoCp2BTI-xy の交流磁化率測定
54
2.9.4. CoCp*2BTI-xy の交流磁化率測定
58
2.9.5. パルス ESR による緩和時間測定
64
2.10. まとめ
69
第三章
70
3.1. 緒⾔
71
3.2. ⽬的化合物の合成
72
3.3. BTI-R ラジカルの吸収分光
75
3.4. BTI-R ラジカルの ESR スペクトル
76
3.5. BTI-R ラジカルの緩和時間測定
77
3.6. まとめ
83
第四章
84
4.1. 緒⾔
85
4.2. π 共役分⼦の性質
86
4.2.1π 共役性
86
4.2.2 π 共役平⾯分⼦を活⽤した分⼦性導体
87
4.3. 分⼦性導体の先⾏研究例
88
4.4. 本章の⽬的
92
4.5. ⽬的化合物の合成
93
4.6. ⽬的化合物の結晶構造
94
4.6.1. (CoCp2)(BTI-Me)2 の結晶構造
94
4.6.2 (CoCp2)(BTI-Me)・MeCN の結晶構造
96
4.6.3. (NMe4)(BTI-Me)2 の結晶構造
99
4.6.4. (NEt4)(BTI-Me)2 の結晶構造
102
4.6.5. 電荷移動錯体の積層構造に関する議論
106
4.7. ⽬的化合物の分光吸収スペクトル
109
4.8. ⽬的化合物の電気伝導度測定
111
4.9. ⽬的化合物の磁化率測定
114
4.9.1. 電荷移動錯体の積層構造に関する議論
114
4.9.2. (NMe4)(BTI-Me)2 の磁気特性に関する議論
117
4.7. まとめ
120
第五章
121
5.1. 総括と今後の展望
122
補⾜資料
124
第 2 章補⾜資料
125
第 3 章補⾜資料
143
第 4 章補⾜資料
162
参考⽂献
178
論⽂要旨
近年, 有機合成化学の発展に従って酸化還元能を有する分⼦を⽤いて従来の機能を代替,
あるいは超越しようとする有機エレクトロニクス, 有機スピントロニクス研究が近年盛ん
に進められてきた. 特にπ共役平⾯において LUMO や HOMO は π 電⼦が⾮局在化した
分⼦軌道となりやすく, この分⼦全体に π 電⼦が⾮局在化する性質により有機半導体や分
⼦性導体の材料として π 共役分⼦を活⽤する研究が⾮常に盛んに⾏われている. また, π
共役平⾯においては酸化還元活性な特性を有するものが多く, こうしたπ共役ラジカルイ
オンではスピンに由来した磁気物性にも着⽬される. 特に近年では S=1/2 のスピンにおけ
る挙動が量⼦ビット素⼦としての応⽤を⾒据えて研究されており, 分⼦を⽤いた量⼦情報
処理における新たな展開を⽀えることができると考えられる. これらの背景を踏まえ, 本
論⽂はベンゼントリイミド分⼦に着⽬し, π 共役分⼦における電気・磁気物性の開拓を⾏っ
たものをまとめたものである.
第 2 章では, ラジカルスピンにおけるスピン間の相互作⽤に対する磁化緩和時間の影響
を調べるためにベンゼントリイミド分⼦のイミド基の先に⽴体的に嵩⾼いキシレン部位の
ついた BTI-xy 分⼦を合成し, スピン間の相互作⽤が⼩さい状態のπ共役系ラジカルアニオ
ンにおける磁化緩和時間の検証を⾏った.コバルトセンやデカメチルコバルトセンといった
還元剤と反応させることで, BTI-xy の BTI ⾻格が還元された BTI-xy ラジカルアニオンの
結晶性固体を得ることに成功した. これらの結晶構造ではラジカルアニオン間に⼤きなス
ピン間の相互作⽤がなく, キシレン部位による⽴体障害が効果的に働いていることが⽰唆
された. PPMS によるスピン-格⼦緩和時間の検証では, 虚数磁化率のピークをπ共役系ラ
ジカルアニオンにおいて初めて観測することに成功し, 磁気的に孤⽴させたことによる磁
化緩和の伸⻑を⽰唆した. ⼀⽅で, 凍結溶媒に⼗分に希釈されたサンプルにおける磁化緩
和測定では, 同⼀温度において 50‒100 倍程度スピン-格⼦緩和時間が⼤きくなる結果が得
られた. 直流磁化率からは得られた BTI-xy ラジカルのスピン間相互作⽤は|0.1| cm‒1 以下
程度であることがわかっているが, このような⾮常に⼩さいスピン間の相互作⽤であって
もスピン-格⼦緩和時間に⼤きく寄与することが確かめられた. また, 位相緩和時間測定で
は 1 µs 以上の緩和時間が低温において得られた. この緩和時間は緩和時間を伸⻑させるよ
うに設計された錯体化合物と同等の緩和時間であり, π 共役ラジカルイオンを量⼦ビット
として活⽤することのできる可能性を⽰した結果であると考えている.
第 3 章では π 共役ラジカルイオンにおける周囲の核スピンとの影響を考えるために, ベ
ンゼントリイミド分⼦のイミド基の先にそれぞれ⻑さの違うアルキル基を付けた分⼦を合
成し, アルキル基と緩和時間の傾向を⾒ることで, 緩和時間と周囲の核スピンやメチル基
の回転との関係について考察を⾏った. スピン-格⼦緩和時間に関しては側鎖に対して顕著
な傾向は⾒られず, スピン密度が側鎖に存在せず, スピン状態に直接関与しない場合はス
ピン-格⼦緩和に対して⼤きな振動の違いは⾒られないことが⽰唆された. ⼀⽅で, 位相緩
和時間は側鎖に対して(i)低温側の緩和時間は側鎖が短いほど⻑くなる, (ii)温度に対する緩
和時間の依存性は側鎖が⻑いほど⼩さいため, 50 K 以上の温度域では緩和時間の傾向が逆
転する, の 2 点が⽰唆された. (i)の傾向は側鎖に存在する⽔素原⼦の核スピンによる影響が
⽀配的となった結果であり, (ii)の傾向は温度上昇によってメチル基の回転運動が位相緩和
の⽀配的なプロセスとなった結果として考察された. 核スピンの影響が顕著になると考え
られた低温側で, 核スピンが電⼦スピンに及ぼす局所磁場の観点から核スピンの影響を考
えた試験的なパラメータを考案したところ, このパラメータと緩和時間の逆数に対して線
形の傾向が⾒られることがわかり, 分⼦性スピンの設計を⾏う上で重要な知⾒が得られた
と考えられた. また, ⾼温側においては側鎖の核スピンの影響が⽀配的ではないことはア
ルキル鎖が疎⽔性相互作⽤などを利⽤したさまざまな⽤途で⽤いられていることを考える
と, 従来の核スピンをなるべく少なくするような分⼦設計に対して新たな設計展開を提供
することができたと考えている.
第 4 章では部分還元状態のベンゼントリイミドの積層状態における電⼦物性を議論した.
ベンゼントリイミド分⼦のイミド基の先にメチル基を導⼊した BTI-Me 分⼦に対して, 化
学還元法や電解還元法による部分還元を⾏うことで, BTI-Me を構成素⼦とした 3 つの電荷
移動錯体の合成に成功した. 結晶構造解析から, そのうち 2 つにおいて π 積層相互作⽤に
よる伝導パスが形成された電荷移動錯体であることが確かめられた. これらの電荷移動錯
体の吸収スペクトルからは分⼦間の電⼦移動に由来した吸収が観測され, DFT 計算からも
⽐較的⼤きな分⼦同⼠の軌道相互作⽤が確かめられた. 結果として, 電⼦伝導性も確かめ
られており, これはベンゼントリイミド分⼦系において初の報告である. こうした結果は
ベンゼントリイミド分⼦が分⼦性導体, または有機半導体として⼤きなポテンシャルを有
していることを⽰唆している. また, 直流磁化率測定では, 得られた内の 1 つの電荷移動錯
体において, 130 K 付近を境にスピン間の相互作⽤が反強磁性的な相互作⽤から強磁性的な
相互作⽤へと変化する挙動が発現した. 強磁性的な相互作⽤は分⼦間で軌道相互作⽤が⼤
きくなりやすい電荷移動錯体においては⾮常に珍しい現象であり, この原因を解明するた
めに温度ごとの結晶構造解析を⾏った. すると, 磁気転移点付近で結晶構造の変化が起こ
っていることが確かめられ, この結晶構造の変化によって磁気的相互作⽤の変化が起こっ
ていることが考えられた. 実際に DFT 計算によって⾼温側と低温側の結晶構造において分
⼦間の軌道相互作⽤の⼤きさを計算すると, 強磁性的な相互作⽤を⽰す結晶相では分⼦間
の相互作⽤がより⼩さくなっており, 強磁性的な相互作⽤がより安定化される結果となっ
たため, 現象の妥当性が確認された. ベンゼントリイミド分⼦間の⼤きな軌道相互作⽤は
有機半導体などへの可能性を開く結果となったが, 磁気的に新たな現象を開拓することに
成功したことで, 磁気的なスイッチング材料としての応⽤や基礎物性として未だ⾮常に注
⽬される導電性分⼦強磁性体の開発へとつながると期待される. ...