化学農薬,温室効果ガスおよび放射性セシウムの環境動態と制御技術に関する研究
概要
産業革命以降,世界的な人口増加が進み,20世紀に入るとその傾向はいよいよ顕著となった.1913年,Haber-Bosch法によるアンモニア合成が稼働開始した.窒素肥料の天燃資源であるグアノやチリ硝石が枯渇し始め,爆発的な人口増加によって逼迫した食糧需要に対応するには,この窒素化学肥料の合成技術は必要不可欠なものであり,その後も大きな貢献を果たし続け現在に至っている(西尾,2019).第二次世界大戦後,化学農薬は日本に本格的に導入され,こちらも作物の生産力向上に加え,省力化にも大きく貢献してきた.稲作に関してはいもち病防除に有機水銀剤,ウンカ防除に有機塩素系殺虫剤であるDDT,BHC,ニカメイチュウ防除に有機リン系殺虫剤であるパラチオンが導入され,多大な効果を示した.また,除草剤2,4-PAやPCPなどの導入は,過酷な除草作業から農民を解放した.1949年には10a当たり50時間を要した除草労力が,1965年には17時間へと大幅に軽減されている(金澤,1992a).これらの農薬の使用によって多肥栽培が初めて可能となり,稲作の安定・多収栽培が容易となった.国内での水稲収量は,1920年前後から第二次世界大戦後まで300kg/10a前後で停滞した.しかし,1946年の336kg/10aから1985年には501kg/10aへと約50%の増加を示している(農林水産省大臣官房統計部,2019).品種改良や機械化などの貢献も当然ではあるが,化学肥料と化学農薬が戦後日本の食糧増産に対しその貢献の大半を占めていると言っても過言ではないであろう.
農薬は,化学農薬と生物農薬に大別される.本論文では化学農薬に焦点を当てて論じていく.このため,特に断らない限り本文中では化学農薬を単に農薬と表記する.上記の農薬が食料増産に大きく貢献してきた反面,これらの農薬の使用が環境を汚染し,生態系に悪影響を及ぼすことを認識している者は世界中でもごくわずかであったろう.Carson(1962)は,“Silent spring.”で有機塩素系殺虫剤DDTの環境汚染による生態系破壊を問題提起した.DDTは塩素を含むため環境中で分解されにくい.さらに,脂溶性であるため,食物連鎖による生物濃縮により高次の動物に蓄積されやすい.このことが,慢性毒性等による鳥類等の不妊化となって発現することを指摘した.1960年代後半から1970年代にかけての日本では,公害問題に対する社会的関心が高まっている時期でもあり,いわゆる「公害国会」で関連法案の改正が進められた.水俣病や四日市ぜんそくなどの日本四大公害病については,ある年齢以上の国民の記憶に留まっているところである.筆者も身近な河川水が合成洗剤による泡で汚く濁っていたことを記憶している.このような動きの中で,1970年前後に前述の殺虫剤および殺菌剤は,急性あるいは慢性毒性,残留性,生物濃縮性の観点から使用禁止となった.特に,土壌中半減期が数年と残留性が大きく(上路ら,2004),生物濃縮性の大きい有機塩素系農薬DDT,BHCおよびドリン剤は作物の汚染を通じて人体にも蓄積された(能勢,1970;内山,1983).このことは,その後の農薬の登録用件の一つ,「土壌中の半減期が1年未満であること」が明確に規定されることにつながっている(上路ら,2004).これらの反省に立ち,低毒性,低残留性の農薬開発が促進された.パラチオンの急性毒性を大幅に改良した国産農薬としてフェニトロチオン(MEP)がある(佐々木,2003).また,除草剤MCPCA,DCBN,DBN等の実用化によって,魚毒性が強いPCPに起因していた魚貝類被害はほとんど問題とならなくなった(竹下ら,2003).
筆者が栃木県農業試験場に異動となり,農薬残留を主体とした研究に着手した1988年当時,まだ国民の間には環境保全に対する意識は低い状態にあった.農薬による防除をほとんど行わなかった場合,病害虫および雑草による作物の減収率は,水稲で24%,大豆で30%,キャベツで67%,キュウリで61%,リンゴで97%であることが実証されている(日本植物防疫協会,2008).このように,農薬は作物の安定生産に大きく貢献したが,その反面,農業生産自体が農薬への依存度を高める結果となった.農薬は,ひとたび卓効を示せば過剰に使用される傾向にあり,このことが病原菌,害虫および雑草の薬剤耐性・抵抗性の発達が恒常的に発生する一因となった.また,自然界における天敵の減少など生態系における不均衡にもつながり,新たな薬剤開発が余儀なくされる等,負のスパイラルが生じるようになった.きわめて散発的だが,農産物から残留基準値を超過する事例が報告され,消費者の不安を助長する一因となっている(植村ら,1992).農薬は病害虫や雑草を防除する目的で植物や土壌に施用される.水稲に散布した農薬の作物体に有効に付着する割合はわずか30%との報告がある(福永,1981).このように,開放系において散布される農薬は,標的部位に留まらず環境中に放出される.その後水,土壌および大気の各相中に拡散し,一部は生物にも取り込まれる.上述したように,農薬は以前と比べて低毒性,低残留性となった.このことは,動植物の代謝試験,水棲生物や有益生物への安全性並びに光分解性,水中分解性や土壌吸着性の環境動態などの室内試験や圃場試験を経て総合的に検討された後,農薬として登録されることで担保されている(内田,1992).しかし,自然環境における多様な条件下では農薬の動態を完全に予測することは困難である.また,農薬は生理活性物質であるため,標的としない生物相に過度に分布した場合,動植物,微小生物等の生態系へ悪影響を及ぼすことになる.さらに,水や大気,食物を通じての人体への農薬摂取が想定される.