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目に見えない小さな微生物が一生懸命働いて作ってくれるお酒。いろいろな種類がありますが、日本には、古来から親しまれ、かつ神聖なものともされてきた日本酒があります。
近代になって醸造技術が発達し、それほど時間をかけずとも大量にお酒を造ることが可能となりましたが、昔は職人が手間暇かけ精魂込めて米と水に麹を仕込み、熟成させてきました。発酵過程の諸条件によってお酒の出来栄えは大きく変わり、その繊細さに興味が尽きません。
多種多様な理系社会人のインタビューを通じて、やりがいと誇りを持てる働き方を探る「理系のキャリア図鑑」シリーズ。
今回は、伝統的な酒造りにこだわりつづけ、日本では数少ない、生酛(きもと)づくりを行っている菊正宗酒造株式会社の総合研究所所長 山田翼様に、日本酒の研究開発の面白さややりがいを聞きました!(※所属などはすべて掲載当時の情報です。)
菊正宗酒造株式会社
1659年(万治2年)創業、362年の歴史を誇る酒造メーカー。水と米、米麹を手作業ですり合わせる酛摺り(もとすり)を手間暇かけて行い、自然の乳酸菌の力を借りてじっくりと酵母を育む「生酛づくり」の伝統を守っている。清酒製造だけでなく、長年培った「発酵技術」を活かした化粧品や食品の開発など、豊かで健やかな暮らしに貢献している。
https://www.kikumasamune.co.jp
酒造りの謎を科学で解き明かす
山田さんは、現在菊正宗酒造総合研究所の所長でいらっしゃるとのことで、今日は日本酒研究の面白さについて色々教えてください!
菊正宗は江戸時代(1659年)の創業から兵庫の六甲山系の自然の恵みを生かした酒造りで人々に親しまれてきました。良質な酒米山田錦と、宮水という名水に恵まれ、硬水仕込み特有のすっきりとした辛口の味わいが特徴です。
長い伝統がありますが、明治時代になると、第8代当主の嘉納治郎右衞門尚義が「どうしても良い酒を造る」という信念のもと、1889年(明治22)にはドイツから顕微鏡を購入したり、醸造学を学んだ技術者を招へいするなどして、業界に先駆けて「近代醸造」への足掛かりを築きました。1988年に研究室と教育事業室を拡充するために研究所を新設し、これが現在の菊正宗酒造総合研究所です。
総合研究所では具体的にどういう研究を行っているのですか?
酒造りにかかわる基礎研究や新製品の開発を行っています。
商品開発は、特別な能力がある酵母を探す「微生物育種」や育種した酵母や既存酵母を用いて特徴ある清酒を創り出す醸造方法の検討が中心になりますが、既存商品の品質向上にかかわる製造技術の研究も行っています。
基礎研究は、一言でいうと「酒造りの謎を解き明かす」研究で、菊正宗が江戸時代から受け継いできた伝承の酒造技術である「生酛(きもと)」を科学的に解明しようとする研究などをしています。
微生物や酵素の細かな働きなど、酒造りにはまだまだ科学的に分かっていないことが多くあります。清酒の原料の米は農産物なのでその品質は一定ではありませんし、外部環境も季節により異なります。そのような中で安定した品質の酒を造るためにも、そうした基礎的な研究が大切になってきます。
清酒の研究開発だけでなく、食品、化粧品など幅広い分野で発酵技術を生かしていく取り組みも行っています。
生酛(きもと)とは何でしょうか?
酒の主成分であるアルコールは酵母の発酵によって生成されますが、この酵母を大量に純粋培養する工程が「酛(もと)」です。酒造りの“もと”になることから酛、また、お酒の母という意味合いから酒母(しゅぼ)とも呼ばれます。水と米と米麹をよくすり合わせ、乳酸菌の力を借りて乳酸を生成します。昔ながらの手作業で4週間かけて造り上げる、酒造りの原点と言えますね。
生酛で育った酵母は、発酵力は穏やかであるものの、発酵末期まで力を維持するため、糖分を消費し、できあがったお酒は辛口の酒質となります。さらに、醪(もろみ)末期のアルコールが非常に多い環境下でも死滅しにくいため、菌体内から漏出する成分が少なく、きれいな酒質となります。
生酛造りは通常の倍以上の時間と手間がかかり、安定的に行うことも極めて難しいため、これを伝承してきたのは、菊正宗を含めて数蔵しかありませんでしたが、近年は酒質の多様化をめざして挑戦する蔵も増えつつあります。
編集部補足:日本酒の作り方
麹…麹はカビの一種である黄麹菌(きこうじきん)を蒸米の表面から中心部分へと繁殖させたもので、デンプン分解酵素、タンパク分解酵素、脂肪分解酵素など、様々な酵素の供給源として用いますが、特に重要なのはデンプン分解酵素であるアミラーゼで、米のデンプンを分解しブドウ糖に変える働きを持ちます。そのブドウ糖を清酒酵母が利用してアルコール発酵を行います。麹菌が生育する過程で蓄えられる様々な成分は、のちに醪(もろみ)中に溶け出して、清酒酵母の栄養源となるだけでなく、お酒の旨味成分として酒質に大きな影響を与えます。
酒母(酛)…清酒酵母のアルコール発酵を促進する乳酸を得るために作る。生酛で作った酒母は、既成の乳酸を添加する速醸系酒母に比べ、乳酸菌のほか様々な微生物の働きにより、アミノ酸やペプチドが多くコクのある味わいになります。
醪(もろみ)…清酒酵母がアルコールを生成する工程。酵素の力で蒸米のデンプンがブドウ糖に分解されるだけでなく、各種アミノ酸、ペプチド、有機酸などが生成されます。清酒酵母はアルコール発酵を中心に様々な香味成分を造り出していきます。
精製・熟成…熟成醪を圧搾機に入れて液体部分(新酒)と固形部分(酒粕)に分離、ろ過し火入れで殺菌・酵素を破壊した後、タンク内で半年間熟成させます。
菊正宗総合研究所では、様々なテーマで酒造りに関する研究が行われています。
研究と製造、両方経験することが美味しい酒造りにつながる
山田さんはもともと、日本酒がお好きで菊正宗さんに入社されたのでしょうか?
お酒は好きですね。私は農学部の農芸化学科(今は生物応用化学科、生命科学科、生命機能化学科、生命工学科などという名前で再編されている大学が多いです)出身です。修士課程までは酵素の精製や、野生の蚕が光によって冬眠から目覚める仕組みについての研究をしていました。醸造関連は就職先として農芸化学出身者にとってメジャーな道です。菊正宗は学会でも発表を行っている会社だったので、研究に打ち込める環境がありそうだと考えました。
入社後はずっと研究所でお仕事されてこられたのですか?
当社では理系技術職は、入社直後は研究所に配属になることがほとんどです。各自それぞれのテーマで数年間、研究を行い、酒造りについて見識を深めた後に、色々な配属に分かれます。私は入社数年後に国税庁醸造研究所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)に派遣されて研究させてもらう機会を得ました。その後当社の研究所に戻って10年ほど働いたのちに、製造部門に行きました、調合部門や生産管理の責任者として勤務後、研究所に戻り今に至ります。
研究職希望で入社しても、ずっと研究所にいられるわけではないのですね。
若い方は「研究」をやりたいと思う人が多いのでしょうね。私は研究も製造もどちらもやりたかったので、両方を経験出来てとても良かったと思っています。自分が研究して得た知見を活かした製品を世に出してみたかったんです。研究と製造は全く次元が異なりますので、研究室でできたことが、製造現場でも再現できるとは限りません。現場に出て初めて、実際の酒造りがどのように行われているのか、現場の人たちがどう動いているのかがわかりましたし、研究と現場、私はどちらにもやりがいを感じました。
自分の研究結果がおいしい酒となって発売される喜び
研究で発見したことが実際の商品になるまでを教えていただけますか?
まず発酵工程で起こっている現象を見つけ、現象の原因を探ります。ここまでが基礎研究ですね。そして応用ですが、基礎研究で明らかになったことを利用しつつ、安定した品質で製品をつくるための方法論を確立します。そして、実際の製品として製造します。
応用ではまずは小さなスケールで酒を仕込んで試していくのですが、分析一つとっても時間がかかるので、酵母を培養するところから始めると新製品の候補ができるまでに約半年ほどはかかります。そうやってせっかく酒ができても市場にマッチしなかったり、安定的に造ることが難しかったりすると商品化が見送られたりといったことも起こります。だから基礎研究から考えると新商品を一から造って実際の発売にまでこぎつけるとなると、数年から長いものでは10年以上かかるものもあります。
基礎研究でも応用研究でもそれぞれにクリアすべき課題がたくさんありそうですね。
開発のそれぞれの段階ごとに必ず壁にあたります。つまり製品化された商品と言うのは、開発の各段階で必ず何らかのブレークスルーを超えてきたものなのです。何か特徴あるものを創ろうとすると、どこかで必ずブレークスルーが必要になるんですね。
既に発見されている手法や酵母を使ってクリアしていってもいいのですが、やはり研究者ですから、誰もやったことがないことを考えて試し、壁を突破できたときが最高に楽しいですね。しかも、発見したことは内容次第では論文として発表することもできます。最終的に商品化されて、そのお酒が飲めるとさらに嬉しいです。
山田さんの携わられた研究で、一番印象に残っているものを教えてください。
「辛口パック」という、ペプチドが多い酒を商品化したことですね。ペプチドには旨みを増強し、苦味や酸味を抑えて「すっきり」させる働きがあります。このペプチドを多く産生する酵母※を独自開発し、日本酒度+10の超辛口でありながら“奥行きのある旨味”を実現しました。
お酒のうま味はペプチドが決め手なのですね。
酒はもろみ(米、米麹、酒母、仕込み水を発酵させた濾す前の状態)段階ではペプチドがたくさんあるんですが、酵母が食べてしまうので熟成の段階までにかなり減ってしまいます。それを防ぐことができれば、ペプチドが豊富に残ったうま味の強いお酒ができると考えました。ところが、これが思ったよりも簡単にはいかなかったんです。
どんなブレークスルーがあったのでしょう。
ペプチドを利用しない(食べない)酵母を取得したいと思ったので、ペプチドに似た物質だがそれを酵母が食べてしまうと酵母が死んでしまうという物質を探して、その物質を利用しない、つまり、その物質が培地に入っていても生育できる酵母を探そうとしました。そういう酵母ならペプチドを食べないだろうというわけです。しかし、そういう物質を探してきて酵母を培養しても、その中で生育する酵母は一つも取れませんでした。ダメかなあと思い始めていたのですが、ある時、酵母のペプチドを取り込む遺伝子の発現制御系についての文献が発表されました。それをヒントに銅イオンに対して強い酵母を取ってくるとペプチドを食べなくなるのではという仮説が立ち、その情報を元に特殊な条件下で育種したところ成功しました。これは論文にもすることができたので、本当に嬉しい発見でした。
時代は変わっても、研究に打ち込む姿勢は変わらない
以前に比べて最近は日本酒のバラエティが豊かになって来ているのを感じます。
現在は、日本酒に限らず酒類の選択肢が格段に増え、好みも多様化しているので、日本酒の世界も新商品をどんどん開発していくことが大切になっています。研究開発業務も今は機械化が進んで楽になった部分もありますが、その分たくさんのテーマを同時並行で進めてゆくので段取りの良さも必要です。
昔と比べて研究者に求められる資質も変わっているのでしょうか?
研究者に求められる資質は今も昔もそれほど変わっていないのではないかと思います。
酒造りに役立つ文献はそれこそフォローしきれないくらいあるので、昔の文献から最新の文献まであらゆる研究成果を取り入れながら、自分たちに何ができるのか、できうる限りの手を考えて根気よく忍耐強くやり続けていく。特に若いうちは、自分が生み出した酵母や醸造法などを何度も何度も小さいスケールでお酒造ってみて、成果を判定していきます。その中で、酒の香りの良しあしなどの判断ができるようになっていきます。「小仕込み」というのですが、見ていると見えない微生物がプクプクとしてきて、毎日の変化を見るのはとても楽しいものです。そうやって、酒造りを徹底的に研究してもらうことで一人前になっていきます。
今後、研究所としてはどのようなことを目指していかれますか?
新しいお酒を開発していくための研究はもちろん、菊正宗ブランドの化粧品についての研究にも携わっていけたらと考えています。個人的には日本酒ファンを増やしていくために、「日本酒って美味しいんだぞ、良い成分もいっぱい入っているんだぞ」といったことをアピールできる研究をやっていきたいなと思っています。
「人づくり」にもさらに力を入れていきたいですね。一人一人を独立した技術者、研究者として、思い切り仕事に打ち込める環境を整え、時には助言もしつつ、各々が信念の元に進んでいけるようにこれからも見守っていきたいと思います。
就活生へのメッセージ
日本酒造りの研究を仕事にしてみたいと考えている方に何かメッセージをお願いします。
自分の見つけた酵母が特許を取ったり、酒として商品になり、消費者に支持してもらえるのは格別だと思います。ゼロからではなくても、既存のものに工夫を加えて新しい商品を作ることもできます。そしてそうした商品は全世界の販路を通じて販売され、自分自身でも身近な売り場や料飲店でも見かけることが出来るので、成果を実感しやすいと思います。
お話ししてきた通り、開発の段階ではいくつもの壁が立ちはだかりますが、研究を心から楽しんで信念をもってじっくりと打ち込んでいれば、必ずいつか突破できます。その達成感をぜひ味わっていただきたいです。
編集部より
長い歴史がありながら、まだまだ謎が多い酒造りの世界。科学の発達していない昔から、経験則で「発酵」を発見してきた昔の人の知恵と努力はすごいと思いますが、それを科学的に解明して美味しいお酒を造ることができたら本当に嬉しいと思います。
自分で作ることが出来なくても、小さな生き物たちがけなげに頑張っていると思うと、お酒が一段と美味しく味わえそうです! 山田様、菊正宗酒造様、貴重なお話をありがとうございました。
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