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アニサキスといえば、魚に寄生する寄生虫の1種で、人体に侵入すると食中毒を引き起こす厄介な存在として知られています。その一方で近年、アニサキスを含む線虫の仲間にはがん細胞の匂いを嗅ぎ分ける能力があるという研究結果が発表され、線虫ががんの早期発見に役立つ可能性についても期待が高まっています。
大阪大学の境慎司教授が取り組んでいるのは、アニサキスをがんの発見だけでなく治療にも役立てることができる可能性を秘めた研究です。境教授は、アニサキスに生きたままゲル薄膜をコーティングするための独自の技術を開発しました。このコーティングには様々な機能を付与することができるため、例えばがん細胞を攻撃する薬をアニサキスに運ばせてピンポイントでがん細胞を死滅させるという新しいがんの治療法の確立にも期待が寄せられています。
この画期的なコーティング技術は、いかにして発想・実現されたのでしょうか。境教授にお話を伺いました。
先行研究で「使われなかった」アニサキスに注目
── 境先生が研究対象としてアニサキスに目をつけた経緯から教えてください。
境:HIROTSUバイオサイエンスというベンチャー企業さんが、線虫を使ってがんのリスクを早期に診断する「N-NOSE」という検査の開発をされていますよね。その取り組みについてのニュースを数年前に何かの機会に目にしたのが、最初にアニサキスに興味をもったきっかけです。
── もとからアニサキスを専門的に研究されていたわけではなかったのですね。
境:はい。私の専門領域は、化学工学といって、モノづくりであるとかモノを作るプロセスを考える学問です。そのなかでも特に私は、生物の持っている機能を材料として利用したり、生物の持っている機能を制御する方法の開発によって、再生医療やヘルスケアの分野への貢献を目指す研究を行っています。そうしたテーマのなかで材料生物のひとつとしてアニサキスに関心をもったという経緯ですね。
── ところでHIROTSUバイオサイエンスさんの提供されている検査で使用する線虫は、アニサキスではなく「C. elegans」(シー・エレガンス)です。対して境先生は、どうしてアニサキスに注目されたのでしょうか?
境:私が読んだHIROTSUバイオサイエンスさんの記事には、彼らが研究を始めたきっかけとして「『アニサキスの食中毒で病院にきた患者さんのお腹からアニサキスを取ろうとしたところ、アニサキスが胃がんの部位に集まってくっついていた』というお医者さんの報告を読んで、線虫を使ったがん診断の研究を始めた」という話が書かれていました。その時に「研究を始めたきっかけはアニサキスだったのに最終的にシー・エレガンスを使うことにしたのはどうしてだろう?」ということが気になったのです。
── アニサキスが「使われなかった」ことに、かえって興味を抱かれたのですね。
境:はい。それともうひとつ背景にあるのは、子どもの頃の体験です。私の父親は釣りが好きで、小さい頃によく海釣りに連れて行ってくれました。それこそアニサキスが寄生しやすいサバなんかはよく釣れて、父親がさばいている姿もしょっちゅう見ていたのですが、その時に父が「サバは早く食べないとお腹が痛くなるぞ」ということと一緒にアニサキスについて教えてくれました。自分にとってアニサキスは、もともと身近でなじみのある存在だったのです。
── 実際にアニサキスを使った研究を始めて、先行研究であまり使われなかった理由は判明しましたか?
境:それはやはり、量産の面だと思います。シー・エレガンスは比較的簡単に育てたり増やしたりすることができるのですけれど、アニサキスについては、少なくとも私が知る限り人工的な繁殖、量産はまだできていない。自然のなかで育つものを採取するしかないので、そういう面で研究の材料としてはやや不向きだということは実感しました。
── 量産できないなかでアニサキスを集めるために先生がどうしたかというと、とにかくサバをたくさん集めてさばかれたそうですね。
境:はい。10匹程度一気にさばくこともありました。ただ、先ほどお話しした通り子どもの頃から釣りによく行っていたので、魚をさばくことにも全然抵抗はなかったです。
── とはいえ、大変な作業ですよね。シー・エレガンスにしておけばよかったと思い直したりはしませんでしたか?
境:いえ(笑)、幸い研究を進めていくうちにアニサキスならではのおもしろさもわかってきましたので。例えばシー・エレガンスの場合には、人間の体に入れてしまうと胃酸などにやられて生きられないのですけど、アニサキスの場合には体の中でも長く生きられるというところがひとつ、おもしろいところだと思っていて。
── 人間の体内でも簡単に死なないということは、これまででいえば、だからこそ人間にとって厄介だったわけですよね。
境:まさにそうです。アニサキス然り、寄生虫によっては我々の免疫を回避しながら生き延びてしまうものもあるわけですが、しかしそれも使いようによって、何か人間にとって有益だったりおもしろいことにも応用できるんじゃないかと思っているところです。
── 具体的にはどのような応用方法をお考えでしょうか?
境:例えばがん治療への応用です。がん細胞を殺傷する薬の輸送体としてアニサキスを使えないかと考えています。それを実現するために開発したのが、アニサキスの表面にさながらスーツを着せるようにゲル状の薄い膜を形成し、アニサキスの生存を損なうことなく物質を搭載する機能を付与するという方法です。
発想の転換から生まれた「スーツを着せる」手法
── アニサキスを生かしたままスーツを着せるように膜でコーティングし、その膜に機能を付与するという画期的なアイディアは、どのように着想を得られたのでしょうか?
境:もともと再生医療分野の研究を行うなかで、動物細胞の表面を膜でコートするという技術の開発を行なっていました。アニサキスをがん治療に活かしたいと考えた際に「治療に活かすにはやはり何か治療するための物質を載せないといけない。どうやって載せるか?」ということを色々考えたなかで、動物細胞に対して行なっていたのと同じように薄い膜を付与して、その中に組み込んであげるといいんじゃないかと思いつきました。
── ご自身が取り組まれてきた研究経験と目の前の課題とがうまくマッチした瞬間ですね。
境:まさにそうですね。思いついて、実際にそれができるかどうか見るまでというのは、非常にワクワクするおもしろい時間でしたね。
── しかし動物細胞と違ってアニサキスは2〜3cmと細長く、しかも動きまわります。コーティングを施すのは、とても難しかったのではないでしょうか。
境:実はコーティング自体は案外すんなりできました。特にコーティング後にアニサキスが動きまわっても膜が壊れないかというところは心配していた部分でしたが、結果的には壊れることなく、うまく定着してくれました。
── コーティングは、具体的にどのような工程で施すのでしょうか?
境:我々が行なっているのは「ペルオキシダーゼ」という西洋ワサビから抽出される酵素を使った方法です。ペルオキシダーゼをアニサキスの表面に固定すると、酵素が分子同士を繋げる働きをして、表面だけに反応が起きて膜が形成されるという流れです。
── 酵素の固定というのは、どのように行うのですか?
境:細胞膜に入り込んでアンカーのような役割をしてくれる分子があるのですけれども、その分子を酵素にくっつけてアニサキス表面に接触させることで、固定します。これももともと、動物細胞を膜でコートする際に使用していた方法です。アニサキスでも同じ方法でうまくいくかどうかは正直わからなかったのですが、試してみたところうまくいきました。固定できたら次は、そこを足場にして、分子同士を縫い合わせるように膜を作っていくという工程ですね。さながらアニサキスの表面で裁縫をしていくような感じです。
── 動物細胞を膜でコートする際のノウハウが、アニサキスにもスムースに応用できたのですね。ここだけ伺うとトントン拍子のようにも聞こえてしまいますが、一方でそもそも最初に動物細胞に膜をつける方法を確立されるまでのところでは、困難も多かったのではないでしょうか?
境:そうですね。色々と試行錯誤をしました。きっかけとしては、博士課程で動物細胞を直径0.5ミリぐらいのカプセルの中に閉じ込めて体に移植するという研究をやっていたのですが、その研究を進めていくなかで、できるだけカプセルの膜を薄くする必要性が出てきました。どうやったら薄くできるかということを考え抜いた結果、行き着いたのが、酵素を使って細胞表面にだけ膜を付けるという現在の方法でした。
── 「カプセルに入れる」という課題から、その考え方を脱して「スーツを着せる」というアプローチに発想を転換されたのですね。
境:今振り返るとそう言えるとは思いますが、その頃はとにかくどうやったら細胞表面に形成させる膜を薄くできるかという、そればかりをひたすら考えていましたね。
── 今後実際にアニサキスががん治療に使えるようになるために、越えなければならないハードルにはどんなことがありますか?
境:ひとつは、やはりそもそもは人体に有毒性のある寄生虫ですから、いつまでも体内にいてもらっては困ります。送り込んだ後の対策もセットで提供が必要だということです。ただこの点は、アニサキス自身を役目が終わったら殺してしまう仕組みをスーツに仕込むことでクリアできると考えています。もうひとつは、先ほども述べた量産の問題です。治療法として実用化するためには、いかに均質なものを提供できるかという点も重要になりますが、今のところアニサキスを繁殖させる技術が確立されていないので、そこは大きな課題です。
── そのほかにもアニサキスを使った研究で次なる挑戦として見据えている展開はありますか?
境:線虫ががん細胞の匂いに誘引されて移動する習性を持つことは広く知られるようになりましたが、私が現在並行して取り組んでいるのは、スーツを高機能化することでその嗅ぎ分けの感度をもっと高められないかということです。これによって、通常では識別できない匂いも識別できるようになり、より高度な生物センサーとして使えるのではないかと思っています。
「ワクワク」する研究の引き寄せ方とは?
── 境先生が研究者を志した原点についても教えてください。
境:母親が小学校の教師だった影響もあると思うのですが、教えることが好きだったので、大学に入った当初は高校教師になろうと思っていました。修士課程の1年目の時に教育実習も行って、教員免許も取りました。ところが同時に「研究もおもしろいな」と気づき始めたんですよね。おそらく教育も研究も本質は同じだろうと思えてきました。教員の場合、自分がどう振る舞うかによって育てる生徒の将来が変わっていきますよね。研究の仕事も、この瞬間自分が何をするかによって、将来的な何かがガラッと変わるかもしれないワクワク感ややりがいがあって、それは教育と似ているのかなと思いました。それから研究がだんだん好きになりました。そのまま最終的には博士の道に進むことを決意しました。博士課程に進んでもその後食べていくのは大変だよっていう話はあったんですけれども、教員免許を持っていたことで、つぶしがきくからいいかなぁという少し気楽な気持ちで挑めたところもありました。
── 先ほどのお話のなかからも、境先生はワクワクするという気持ちをとても大切にしていらっしゃるようにお見受けしました。「ワクワク」を引き寄せるコツについて、アドバイスをいただけないでしょうか?
境:やはりいろんなことに幅広く興味をもって見ておくことが大切ではないかと思います。一瞬一瞬無駄なことというのはなくて、全てに真剣に向き合っていると、ふとした時にどこかで点と点がつながることがあります。そのつながった瞬間の高揚感というのは、何物にも代え難いものがありますよね。
── 先生にとって研究者とは、どのような仕事でしょうか。
境:大学の研究者か企業の研究者かでも違うとは思うのですが、少なくとも大学にいる身としては、やはり非常に自由な仕事だなと思います。もちろんプロとして結果を出すことへの責任やプレッシャーも大きいですが、自分の発想したこと、おもしろいなと思ったことを自分で試すことができて、しかもその結果を世界で初めて見ることができる。それができるっていうのはやっぱりすごく、幸せな仕事だと思います。
── たしかにそうですね。一方で、特に若手のうちは好きな研究テーマに没頭できるというよりも配られたカードによって研究テーマが決まってしまうところもあります。そのなかからどのようにして、少しずつ自分のやりたいテーマに取り組むチャンスを掴んでいけばよいでしょうか?
境:まず配られたカードについてはきちんと取り組むことです。それがプロということですので。ただ、それと同時に、方法を変えてみるとか材料を変えてみるとか、何かしら自分なりの工夫については、こっそりでもいいから、試していくことが大事だと思います。「本当はこんなことやりたいんじゃない」とぼやくよりも「自分だったらこうするのに」というポイントを見つけることに時間を使った方がいいですよね。それともうひとつは、常に自分の「戦闘力」を高めておくということも大切です。
── 「戦闘力」ですか…!
境:戦闘力を高めるとはつまり、自分がやってきた成果が何なのかというのを常に言えるようにしておき、さらに自ら発信していくということです。「どこどこのグループに所属していました」ということで自分を語ってしまう人が少なくないのですが、そうではなく自分の顔を示すことが重要です。そういう発信を意外に人は見てくれているので、いずれ必ずチャンスに繋がると思います。
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境 慎司(さかい しんじ)
1975年福岡県生まれ。1994年、福岡県立明善高等学校卒。1998年、九州大学工学部化学機械工学科卒。2002年、九州大学大学院物質プロセス工学専攻博士課程修了、工学博士。九州大学大学院工学研究院助手・助教(2002年10月~2009年12月)、大阪大学大学院基礎工学研究科・准教授(2010年1月~2016年3月)を経て、 2016年より大阪大学大学院基礎工学研究科・教授。(※所属などはすべて掲載当時の情報です。)
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